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久々にみんなが再会した時の嬉しそうな顔ったらない。コロナになって、人と会わない時間がどれだけキツかったか、分かる。稽古が始まって体を動かし始めると、だんだんのめり込んでいって、何も見えなくなる感じもいい。ダンスしかないって人たちの愚直なまでのストイックさが胸を打つ。何度も何度も同じ動きを繰り返して、足がつらいとこぼし合う彼女らの楽しそうなこと。散々稽古して、無観客になってしまったときのみんなの落胆した顔。いろんな顔を丁寧に捉えている。
ずっと微笑ましくてニヤニヤしてしまう。3人の男子は、みんなヘタレでヴァカンスに来たって全然いいことなさそう。対する女子のキャラがみんないい。すぐにオッケーかと思いきや、何だかんだと文句をつける。そのツンデレぶりが凄まじい。振り回されおかしくなってくる男子には同情しかない。それぞれ男子も女子もいい奴らで、悪意なんかまったくないのに、何でこんなにうまくいかないのか。人妻とデートから帰ってきて、別れる直前の戸惑いとか、身に覚えがありすぎて痛い。
主人公の彼女の動きがヘンテコだ。突然男の人に抱きついて泣いたり、魚屋の氷の上に顔を埋めたり。よく分からん。パラレルワールドなのか? 子どもを置いて出て行ったはずなのに、別のシーンでは一緒にいたりする。見ていくうちに、だんだんと胸を締めつけるような悲しみが襲いかかってくる。全てのピースが後からハマっていく感じ。見終わって、すぐさまもう一度見たくなった。彼女のいない世界のあったかもしれない幸せ。その描写がリアルであればあるだけ、悲しみは大きい。
猫がちゃんとマリカの問いかけに答えているのに、びっくりした。食べ物とか飲み物とか一体どこから調達してくるのか不思議になるほどなーんもない所。すごい砂嵐。店内は砂だらけ。彼女はずっと客が来るのを待っている。いろんな人が店を訪れては去っていく。常連の男と急に刑務所のこっちと向こうの設定で芝居を始めたのには、笑ってしまった。行方不明の兄を探していると言う客に、娘が死んだ話をするマリカ。嘘だか本当だか分からないその話に、何か感じるものがあった。
コロナ時代の舞台芸術表現の物語でもあり、とても興味深い。カメラが近くで捉えるバレエダンサーたちの身体的な美しさや筋肉のしなやかさ、その動きにとにかく見入ってしまう。これまでのように表現ができないことがどれだけ肉体に、精神に影響するか。オペラ座閉鎖から、さらに公演中止、ライブ配信をするまでの軌跡を辿りながらも、バレエ界に限った話ではなく、ものづくりにおける普遍的な要素も多く面白い。歴史的な一幕が73分に凝縮されていて非常に見応えがあった。
恋愛未満、友情未満が織りなすうつろいやすさ。徹底されてきたギョーム・ブラックの世界観、不器用な男性を主人公にして恋愛を中心にすすんでいく物語を簡単に「愛おしい」などと形容したくないと思いつつ、いつも映画に流れる空気はどこか心地よさを感じてもいる。俳優たちの自然な演技が魅力的だった。特にカラオケシーンのちょっとした瞬間の親密さなどには惹きつけられるものがある。“いい人”であり続けたシェリフに「ご褒美」かのようなラストには違和感があったけれど。
ひとつの受け入れがたい現実と、そのために生まれる新たな現実。どこからが現実なのかがわからなくなる物語構成を、まるで謎解きをしていくように進んでいく。前作「バルバラ」(17)に続き、幻想とリアルの入り混じった手法をふんだんに満喫することのできる本作は、非常にマチュー・アマルリックらしい作品。新作をいつも楽しみにしている監督の一人でもある。一度その世界に足を踏み入れたら、何度でも繰り返し見たくなるにちがいない。日本語版のタイトルも秀逸。
カフェの主人マリカのどっしりとした存在感と砂漠にぽつんとある白い建物のイメージが何度も頭の中でオーバーラップする。カフェを訪ねてくる客たちとマリカのなんてことのない会話が、横にいてぼんやりと聞こえてくるような不思議な距離感だ。物語が見えそうで見えない。くる人くる人にいつも「なぜ?」を問いかけられ質問攻めにうんざりしているマリカ。始まりもなく終わりもないような、何百年とそこにいるような夢のような奇妙な感じがして、静かな興奮とざわめきが生じる。
コロナ禍で多くのものの存続が危ぶまれるようになったが、パリ・オペラ座も例外ではない。オペラ座を続けるには、まずは練習にリハーサル。公演こそがその存在意義だからである。最悪、無観客でも配信でつなぎ、ついに1年半ぶりの有観客公演へ。さて、オペラ座では再開後に2人のエトワールが誕生した。映画のラストでこう2度も任命式が続けられると、この任命の儀式こそ観客が待ち望んだもので、バレエ以上のスペクタクルに見える。オペラ座の存続に必須なのはこの階級制なのだ。
呼ばれてないのにヴァカンスについていく。まるで「アデュー・フィリピーヌ」(62)か「オルエットの方へ」(71)か。エドゥアールはB・メネズを彷彿とさせる。だが、ロジエが複数の人物で1つの形象を作り上げるのに対し、本作の登場人物はそれぞれ個別の存在であり、フェリックスとシェリフは2人1組ではないし、エドゥアールとトリオを結成するわけでもない。アルマやエレナやニコラらもそうだ。別々の物語を担った異なる存在同士の組み合わせがそのつど出来事を生起させる。
マチュー・アマルリックの映画はいつも「創作」をめぐる。だが、「ウィンブルドン・スタジアム」(01)でロベルト・バズレンに関心を示していたように、そこでは書かないことこそが書くことであり、創作ならぬ創作が問題である。前作「バルバラ」(17)が伝記映画制作を題材に「解体」の様相を示したとすれば、今作が焦点を当てるのはむしろ「再構成」である。私たちにはときに創作が必要だ。しかし、それがなぜ必要なのかをこんなに悲痛に示しえた映画があったろうか。
冒頭のロングショットで傑作を確信。中央上に店を捉える配置といい、左右から順に走り抜ける2台の車のタイミングといい、店へと向かうマリカと彼女に駆け寄る2匹の犬の豆粒大の動きといい、そこに重ねられるタオス・アムルーシュのカビル語による歌唱といい、すべてが息を呑む美しさ。麻袋に刻印された「ネジュマ」の文字はカテブ・ヤシンへの目配せだろう。夜、ラジオから流れるのはB・イーノ&D・バーンの〈コーラン〉。文化の盗用や宗教をめぐるしなやかな議論も視野にある。