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囚人たちが監獄の窓から覚えたセリフを怒鳴って、みんなが呼応するところでボロ泣き。それぞれ閉じ込められてても、連帯することができる。芝居っていいなと思った。物語の省略が大胆で唸った。バンバン時間が過ぎていく。え! そんなに飛ぶの! びっくりで快感だった。彼らの過去の犯罪にあまり触れないのも良かった。描くのはそこじゃない。外に出たいとずっと待っている囚人たちの、生きる喜びとは何なのか?外に出た時の彼らの喜びようったらない。散歩に行く前の犬みたい。
象がちゃんと芝居している。あれ本物だろうか? CGかな? 自由に暴れまわる象を見ているだけで楽しい。主人公の森の神が、結構間抜けで笑ってしまう。何をやってもどことなくユーモラス。この男がとことんうまくいかない。悪いやつに騙されて、ボロボロになっていく。もっと活躍するかと思ったが、そうじゃない。この弱いおっさんが、意地のように象を守ろうとするのが、滑稽で面白かった。ストーリーは、敵と味方がはっきり分かれていてわかりやすい。161分は長すぎる。
男の子がどちらの親(里親と実父)にも気を使っているのがよく分かる。いつだって子供は無力で、大人は勝手。描写は繊細。人物の些細な表情や気持ちを丁寧に捉えている。主人公の女の人が宿題をやらせるかどうかのメールを思わず出してしまうところとか、母親の執着ぶりが怖い。可愛いと思うことが、攻撃的な行動になってしまうのが、見ていてジリジリする。兄弟たちが全く分け隔てなくこの子と付き合っているのが良かった。大人ばかりがアレコレ考える。愛情ってめんどくさい。
おじいさんとおばあさんが毎日どういう風に暮らしているか。それを淡々と丁寧に描く。もう何十年もこういうことをやり続けてきたであろう、その歳月を2人の会話や動きでまざまざと感じる。マッチがないってだけで、あんなに大事件になってしまうのが、面白かった。ヤギの死体とか火事とかメチャクチャ残酷なことが起きるのに、2人の愚痴や泣き言はどこかノンキでユーモラス。やることなさそうに見えて、毎日あれこれ忙しいのが驚きだった。アンデスでふたりぼっちは大変。
今はあまり仕事のなくなってしまったコメディアンのエチエンヌが演出し、囚人たちが俳優として『ゴドーを待ちながら』を劇場で演じる。テンポも良く、見ていてあっという間。ひたすら待ちつづけること=囚人たちの物語だと考えるエチエンヌが、決して囚人たちの過去で判断するのではなく、目の前にあることから新たに関係性を築き上げていこうとする心意気に魅了されつつ、少しだけもやっとする。実話に基づく物語が美談になりがちなことがなかなか純粋に楽しめなくて悔しい。
いったいクライマックスが何回来るのだ、という感じで音楽含めてtoo much。スローモーションの多用など、プロモーションビデオのような映像に少々疲れてしまう。主人公のハーティーがとにかく強い。木をスイスイ登るシーンなど面白いのだけど、目的のためなら人を殺してしまうというのはあまりに現実味がない。ストーリーとしては先が読めてしまう展開にしても、善悪の役割があまりにはっきりした人物造形にしてもつっこみどころが多く、娯楽映画としてもいささか長すぎる。
シモンの実の父親と里親であるアンナがすれ違ってゆく苛立ちや、特別扱いに対するちょっとした子供同士の嫉妬など、そこに流れる人々の感情がとてもリアル。細部にほとばしるリアリティには引き込まれつつも、別れが訪れるのが分かっている設定で里子と過ごした日々を描くことが「感動」を生み出してしまうのは想像に易く、ストーリーとしてはありきたりに感じてしまう。「同じ映画を見たのかな」と映画館で偶然に見かけたシモンを見ながら最後に実子が言うセリフにはぐっときた。
顔のよく似た老夫婦がたった2人、アンデスの山奥でひたすら息子の帰りを待っている。じっと見つめているようなカメラの目に何度もどきっとさせられ、映像に見入ってしまう。想像力だけでは決して見ることのできない、異文化の暮らし。暮らしの中にあるなんてことのない会話、自然と共存することと、初めて聞くアイマラ語の音の心地よさに身を委ねる。驚くことにオスカル・カタコラ監督とは同じ生まれ年であった。もうこれ以上新作が見られないのが残念でならない。
「字が読めないのに3ページものモノローグを覚えたんだ」とかいって前振りをしておくわりに、いざ本番を映す段でもクロースアップを続行、しかも演出家や観客との切り返しである。このあたりの無頓着さはやはりいかんともしがたく、最後の一人芝居の位置付け方も的外れだろう。ただ、整音のせいか台詞回しのせいか、特にマリナ・ハンズが話すたびに米国ドラマの仏語吹替版を見ているような錯覚に誘われるのだが、紛い物をさらに紛い物にしたような、そんな平坦な声が心地よい。
話題の「バーフバリ」2部作を未見の私のような者が感想をいうのはおこがましいのだが、終始楽しんで見た。ゾウとその住処である森を守る者が「善」で、その森でリゾート施設の開発を計画する大企業とその後ろ盾をする大臣が「悪」という、王道の勧善懲悪。とはいえ、悪者の思惑を崩すのがSNS世論で、それを気にした首相のメールで一件落着、ではいささか情けない気もする。反政府ゲリラが結局全滅し、姿を見せない首相が漁夫の利を得る感じになっているのがどうも釈然としない。
普段はこんな言葉遣いはしないが、つい「プチブル」とか「欺瞞」という単語が口を衝く。M・ティエリーの表情を中心に構成されており、彼女の心理が主題なわけだが、その悩みが「贅沢」に見えてしまうのが本作の弱み。戸建てと団地、休暇の有無、要するに富む者と貧しい者が対比されれば、この苦しみもまた恵まれた者の特権であるかのように映るのだ。女優の顔に賭けたといえば聞こえはいいが、里親制度をめぐってこうも一方的な物語で悦に入るとは、傲慢のそしりを免れまい。
桁外れの映画的センスに恵まれたO・カタコラが、この1作で早逝とは無念の極み。ここしかないという場所にカメラを置く術を知る監督である。リャマを右奥に捉える昼食、俯瞰のロングショットによる帰還、燃え上がる家に水をかける2人、ナイフを後ろ手に進み行く姿……、数え出せばきりがない。だが、それだけではない。冒頭近く、夜、室内。パクシが火を灯すと、青から赤へと色調がゆっくり変化していく。画面を立ち上げるには音と光の繊細な組み合わせが必要と知る監督である。