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アリス・ギイ=ブラシェという名前を『私は銀幕のアリス』という彼女の自伝が出た際に覚えた。最近シネマヴェーラでも少し見られたので、今夏の公開は時宜に適っている。その生涯は決して恵まれたものではないにせよ、映画史ドキュメンタリーの存在は僥倖といえる。ただし私は製作の背景よりもギイの映画自体をもっと見たかった。問題の世界初の劇映画「キャベツ畑の妖精」にしても、彼女の記憶と微妙に異なるというし。焦点を当てる事柄は沢山あったはずなのに。傑作だが惜しい。
タイトルの意味を知らなかったので調べた。国際的陰謀論までどっとネットに出現し、呆れる。気分が悪い人身売買の話もあるが、ここでは要するにカニバリズム(人肉食)で若返ろうという意味。若見え有名人は皆、この化学成分を注入しているという都市伝説あり。戦場帰りのタフな若者が組織に闘いを挑む。若い映画人が製作する幻覚剤映画というのはなぜか時々アメリカに現れる。コンラッド・ルークスの「チャパクア」とか。自作自演の企画ならではの幻想場面満載で入門者向きだね。
アジアンホラーには独特な触感が。要するに怪談なのだ。特に韓国、日本、それにタイ。祖先の因縁や階級差の生む悲劇が背景で、それらを民俗的というよりも映画史的な連携で具体化する。本作は韓国映画「哭声/コクソン」の祈禱師の出自を探る物語。監督は日本映画風の心和むホラー「愛しのゴースト」で知られる。また監督デビュー作「心霊写真」は落合正幸監督でリメイクされた。森の奥での儀式の光景がさすがなのだが、監視カメラの映像が日本映画みたいでかえって興を殺がれた。
ファンタジーみたいな邦題は果たして損したのか得したのか。ニューヨークの地下鉄のそのもう一つ下の階の空隙に暮らすホームレス母子。追い立てられた子供の初めての地上行を厳格なカメラアイで描く。最近は珍しくなった正確な視線演出が緊迫感を醸成し、地下鉄で母子がはぐれる場面での手持ち撮影も秀逸。日本のピンク集団、獅子プロ作品みたいだね。映画は低予算に限る。地下二階から地上数階までの上下空間に運動は限定され、その往還を経て理知的な結末が導かれるのが上手い。
本作の底流にあるのはアリス・ギイその人と作品の魅力だけではなく、ひいてはこれまで「正史」として広く扱われてきた「映画史」への疑義そのものであろう。今日のデジタル技術を駆使してギイの功績を再発見し彼女の「肖像画」を再構築するラストシーンの演出が、この時代における「波」を形象する。高く評価されながら映画史において見過ごされてきた女性の映画作家バーバラ・ローデンの「WANDA/ワンダ」と本作が同月にここ日本で劇場公開されるのも、決して偶然ではない。
こういった低俗にみえることさえ厭わないような映画に低い点数をつけること自体ナンセンスな気がして憚られてしまうが、かといって高得点をつけるのもいかがなものか。デジタル時代の実写映画など全てアニメーションのようなものだと言われればそうかもしれないが、ここまで画面に加工を施されると、筆者のなかで痛みを伴いながら拡張していくばかりの映画の定義からも外れることは免れない。そもそも映画のほうにしてもキマりたい奴だけキマればいい、というスタンスなのだろうが。
感覚的なズームや絶え間ない手ぶれなどの演出が続くモキュメンタリーの手法が採られているが、それが2時間を超える上映時間をより冗長にしているかのようでやや長く感じる。終盤はカオスというよりも、単に映画が破綻していく様を眺めているよう。監督であるピサンタナクーンの過去作「愛しのゴースト」やプロデューサーであるナ・ホンジンの監督作「哭声/コクソン」などは土着性がそれぞれ生かされた良作だったかもしれないが、本作のタッグに関しては奏功していないのでは。
暗闇のなかに煌めく星たちを模したファーストショット。続くショットで佇む子供のまなざしにより、空中の塵を星と幻視していたに過ぎないことがすぐさま流露される。この子供の世界に本物の星は存在しないらしい。わたしたちは映画がはじまってから子供の姿をまざまざと見つめていたはずなのに、やがて終盤になるにつれ彼女の顔は雑踏にかき消され目を凝らそうと見えなくなっていく。母が子の人生のために決断する物語であり、試練の雪崩に居た堪れなくはなるが、総じて美しい映画。
映画史上初の女性映画監督アリス・ギイ=ブラシェはリュミエール兄弟やメリエスと並ぶ映画史における重要人物であり、女性をはじめ男性中心主義が措定したさまざまな社会的マイノリティーたちと寄り添い続けた作家でもあった。にもかかわらず、その功績に対して正当な評価を受けているとは言い難い。そうした彼女の存在に照明を当て、これだけの豪華出演者をして彼女について語らせただけでも本作の存在意義は計り知れない。そしてそれはこうした時代において一層光り輝く。
薬物を摂取せずとも宇宙の彼方までブッ飛んでいったような気分にさせてくれた「レクイエム・フォー・ドリーム」や「エンター・ザ・ボイド」レベルの創造的飛距離を期待していたが、あいにく本作は映画サークルのメンバーが撮ってきた素材にiMovieでエフェクトを施したようなクオリティであった。あらゆる幻覚剤が禁止されているこの国でこうしたドラッグムービーを見るのは、3Dサングラス抜きで3D映画を見ているのに等しい行為なのだろうか。筆者には見当がつかない。
目に見えないモノたちやそれを司る儀式へのナ・ホンジンのアプローチは特異で、「哭声/コクソン」のお祓いシーンなどは今でも忘れ難い。彼が製作した本作もそうしたセットアップは完璧であり、「これが本物だ」と信じられるだけの道具立ては揃っている。それだけに、制作者のカメラ・アイへの意識の行き届かなさが終始気になった。たとえモキュメンタリーであっても、ホラー映画をホラー映画たらしめているのは、ショットごとの「視線」に対する研ぎ澄まされた感覚であるはずだ。
左右ではなく上下に分断されてしまった世界。コロナ後の、外部を想像するのが難しい暗く閉ざされた空間。そこで展開される観客の同情を誘うようなエモーショナルな芝居とそれらを捉える複眼的なカメラアイ。このように本作は2020年代の人類および映画表現が直面する主題が一通り納められている、非常に同時代的な作品である。しかしそれらはあくまで作者の頭の中で適度に組み立てられたものであり、最後まで作者の手を離れた映画的飛躍が見られなかったのが口惜しい。