パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
おじいちゃん、歳を取るってそういうことなんですよ。と私が慰める義理もないのだが。老夫婦の“性”活に焦点を当てるホラーは珍しく、70年代末の殺伐とした雰囲気と併せて一見の価値あり。若者たちがポルノ・ビジネスで一旗揚げたい映像集団というのも時代を感じさせる。初期のAV市場に食い込むのが目標だからか、作品はソフトポルノにしている。妙に芸が細かい。劇中劇の小型フィルムの質感が懐かしい。その分スプラッタとしては上品。映画マニアに確かに受けそうなムード。
オリジナル版も本欄で私が担当。両方を逐一比較したわけではないがコンセプトは一緒。もっと変えても良かった。とはいえ人物名の件のリメイクならではの趣向がグッド。また劇伴(サントラ)も有能な音楽家が即興的に付ける。ここの劇伴ギャグも定石だが利いている。こういう作品を見ると映画は低予算の方が面白いと確信する。ただしそこは30分ワンカットという技術革新あってだから、安けりゃいいということではない。車椅子移動車とか肩車リフトとかの涙ぐましい工夫を愛でたい。
物量作戦で再現された終戦直後のソ連邦の光景に目がくらむ。またこれまでにも映画で見た記憶のある共同アパートメントのごった返しぶりも凄い。その一方で優雅なお城住まいの上流階級もいる。このギャップがテーマの一つ。そこのお坊っちゃんの思惑が今一つ不分明だが、だからこそ残酷なクライマックスを醸成するとも言える。祝福を期待した主人公が被る仕打ちが痛ましい。そこまでの彼女の行動規範に観客の共感を拒否するところもあるが映画最大のテーマがそこに潜んでいる。
撮影がずば抜けている。監督とカメラマンは明らかにヴィルヘルム・ハンマースホイの窓際の女性像とか、ジョルジュ・ド・ラトゥールのマグダラのマリアを参照しつつ画面を構成しており、見応えたっぷり。どうせなら主人公画家の絵のスタイルの変遷も網羅的に見たかった。ただし物語の時空間は彼女の第二の青春みたいな8年間中心に絞られるので、そういった美術史ドキュメンタリー風にはする気もなかっただろう。問題は彼女の生涯の友人となる男が大したキャラクターじゃないことか。
「老い」をひとつのテーマとして持つホラー映画として近年公開された「レリック−遺物−」と、合わせ鏡といってもいいような作品。とはいえ老いること自体がホラーであるように描く一方で最終的には美しさとともに生を賛美しているともみれる「レリック」とは異なり、本作はとことん泥臭い。ひとりの女性俳優が若き姿と老いた姿を演じ、対峙させることで本作のグロテスクな様相がより際立つ。「ドント・ブリーズ」の老人男性とはまた別の恐ろしさをもつ老人殺戮が繰り広げられる。
アザナヴィシウスの過去作である「アーティスト」や「グッバイ・ゴダール」など、まったく煮えきらないオマージュとしか感じられなかったが、本作に関しても同じ印象が否めない。ただし単にフランスでリメイクするだけではなく、日本でヒットしたゾンビ映画をリメイクする製作過程を見せるというメタ的な構造にしたのは英断だった。オリジナル版とほぼ大枠は同じでありながらも楽しめてしまうが、それは上田慎一郎の「カメラを止めるな!」の功績であって決してこの作品のではない。
緑と赤の美しい色彩設計に、「キャロル」や「燃ゆる女の肖像」に連なる女性同士による傑出したクィア映画の系譜を看取する。原案となった『戦争は女の顔をしていない』がこれまで語られなかった戦時下の女たちの語りを女が聞き書きしている物語にあって、男性ジェンダーである監督が語ることのアポリアがそこには立ちはだかる。監督が何より自身の「女性性の発見」を目論んだという発言、入浴場や性交時の女の身体の描かれ方がそれに対する一つの解になりえるかもしれない。
本作で白眉なのは、随所に差し込まれる無人の風景ショットではないか。そこではスタティックな画が志向され、映画と絵画という決定的に異なる芸術形式が限りなく溶け合う。戦争や貧困を描くのは「女流画家」に相応わしくないのでは、と問われるヘレン・シャルフベックは「レッテルを貼られたくない」とひとりの画家であることを主張する。であるならば、そこを描きたい作品とはいえど彼女が女性である側面を強調するようなラブロマンスにやや比重が置かれすぎているような気もする。
清々しいほどのムービー・ゴアぶり。ベースを「悪魔のいけにえ」に置きつつも、ホラーやエクスプロイテーション、ミュージカルなど、さまざまなジャンルをその映画的運動神経をもって縦横無尽に行き来するタイ・ウェストの身軽さと映画史に対する深い理解と愛情はいずれ大傑作に結実するだろう。過去のサンプリングから新しいものを生み出す一方、池の中で接近するワニと人との距離をドローンからのスーパー・ロングで捉えたショットなど、最新技術を用いた演出も効いている。
良く出来てはいたものの、ゾンビ自体にはさしたる愛着もなく、映画業界の労働搾取を美談にまとめあげてしまった原作を、子供ですら騙されないエセ白黒映画で名を成したミシェル・アザナヴィシウスがリメイクするということで、なんとも嫌な予感がしていたが、画質が原作よりも若干良くなったという点以外はやはり厳しい。作劇や人間描写における、「日本的幼児性」を西洋人が再現すると何十倍もの耐え難さとなって回帰してくるという事実を白日の下にさらしてくれたのは収穫。
大戦ですべてをうしなってしまった女性ふたりによる、「その後」をめぐる物語である。好き嫌いは分かれるだろうが、「奇跡の海」を想起させる倫理的ジレンマと「サウルの息子」のごとく被写体の背後に貼りつくカメラが次第に人間を人間から引き離していき、人間ではない新しくも古い何かへと変身させていく。主人公たちがあまたの女性たちと入浴するシーンなどは、絶滅を運命づけられた未知の生物たちによる最後の晩餐のようで、その圧倒的な虚無感と時代性には寒気がした。
絵画と現実の違いとはなんだろう。恐らく違いはないのだろう。本作の主人公である画家・シャルフベックが展示会で自らの作品に当たる光に執拗にこだわっている様子を見ていてそんなことを思った。彼女を演じるラウラ・ビルンの顔に落ちる陰翳は絵画のような深みをたたえた現実であり、絵画をそのまま再現したいくつかのカットは現実のような絵画である。その往復は、そりゃ伝記映画よりも彼女自身の作品の方が良いに決まっているでしょうよという声を打ち消せるほどに刺激的だ。