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男たちの顔がヤバい。何年も漁船の中で奴隷として働かされるとこんな顔になるんだ。7年とか10年とか20年とか、時間の長さに驚く。もう故郷には帰れない。今いる場所で奥さんも子供もいる。投げやりのような彼らの生気のない顔を見つめ続ける。カメラを向けられ両親に何か一言と言われ、涙を流しながら語る姿が、いつまでも記憶に残る。彼らを救おうとする女の人がいい。揺るがない信念みたいなものが伝わってくる。どこかにこういう人がいると思うとホッとする。
目の前に車が止まっていて、そこから覆面の男がやってくる。じっと耐える主人公の女の人。緊張感がハンパない。メキシコの国境近くってこんな怖い場所なのか。母親にとって子どもが死ぬことがどんなにショックなことか。想像するだけで泣けてくる。意地になって息子を探し回る女の人の抑えた表情が忘れられない。息子みたいな男の子とのつかの間の交流。唯一ホッとする時間。うまくいけばいいと願わずにおれない。無残なラストが何もかもぶっ飛ばす。凄いとしか言えない。
ブルース・チャトウィンという人のことを全然知らなかった。見ているうちにだんだん分かっていくのが面白かった。丁寧な語り口に、監督の亡くなった友人に対する愛情とこだわりを感じる。合間合間に挟まれる監督の過去作の映像が驚きだった。雪山に閉じ込められて55時間じっとしていた話とか、現地のエキストラが暴れ出した話とか。こんなメンドくさいことやってたんだ。思わず笑ってしまう。HIVのネタは、最初にばらしてたら、もっと見方が違ったかもしれない。
ひでえな。見ながら呟いた。容赦なく人が殺される。あっという間。こいつは助かるのではと思われる人物もあっさり殺される。ヒロインもボロボロにされ、ホントに可哀想。人が悪い。意地が悪い。これでもかとひどいことが連鎖していく。救いはない。じりじりしてくる。誰かいい人出てこないのか。キツイキツイと思いながら、それでも画面から目が離せない。怒りを思い切りぶつけているような妙な解放感がある。そのエネルギーがこっちを巻き込んでいく。ゾクゾクする。
これが本当に現代でも起こっているのかと驚愕する。人権などそもそも存在していないかのように「海の奴隷」になってしまった人々がいる。この作品は元奴隷となってしまったひとによる証言から作られたイメージ映像も多いだろう。本当に漁船の中を映すことは不可能に近い。労働における権利活動家として活躍するパティマさんの言葉や表情からは、ただただこの恐ろしい現状に辛い気持ちでいることがこれでもかと伝わってくる。この映画は始まりに過ぎない。知ったうえで、どうするか。
ほの暗い画面の中から見つめてくる母親の表情が、常にこちらに向かって先の見えない不安を問いかけてくるようで、ずっと緊張しながら観ていた。行方不明の息子を探すのに藁をも摑むような気持ちで手がかりを辿るものの、少しも解決に向かっていないかのような息苦しさが続く。捜索の旅の途中で出会う青年との出会いのなかで、一緒に住もうと提案するときの諦めにも近い表情に惹きつけられた。再会は単なる希望ではなく、閑散とした道はどこまでも長く、暗い夜道の寂しさに息を飲む。
なんて親密で、優しさに満ち溢れているのだろう。ヴェルナー・ヘルツォークが、紀行作家ブルース・チャトウィンの旅した世界を辿る。そこにチャトウィンの声で、時にヘルツォークの声で、チャトウィンの散文の朗読を重ねる。ドキュメンタリー映画において近しい人を撮ることは非常に難しい。このプライベート感さえ窺わせるこの作品からは、とても自然にチャトウィンの魅力が溢れ出ている。思いがけず、他人のラブレターを読んでしまったような切なさがこの映画にはあった。
理解のし得ない者たちは人間ではなくエイリアンなのか。赤い血の代わりに、緑色の液体が飛び散るこの街で、一体誰が人間でいられるのか。戦争とはつくづく人間でいられなくなることなのだと思い知らされる。止まらない憤りは、個々を離れ集団のものになった瞬間過剰な攻撃性を生み出す。大量に誰かが死ぬまで暴力は終わらない。本来なら最高に幸せなはずの自分の結婚式で、白いドレスではなく戦闘服さながら赤いパンツスーツを着た花嫁の闘い方は、最後まで人間でいることだった。
パティマ·タンプチャヤクルとその活動に敬意を。22歳で癌になり、生死のあわいをさまよった彼女は、闘病を終えると「他人のために生きよう」と心に誓ったという。2004年に移民の子どもたちの教育支援を目的に夫とNPOを設立。労働者の人権擁護へと活動は次第に広がった。本作は、職探しの過程でだまされたり、あるいは誘拐されて、違法な漁業の奴隷労働に従事させられる船乗りたちの命を救い、彼らの人権を保護する活動をより多くの人に伝えるためのPR映画である。
見せなくてもいいものを見せる。その点に疑問が残る。たとえば序盤で一方の母親が息子の遺体写真を見せられ泣き崩れるくだり。彼女が何を見たかはその反応だけで伝わるので、写真をスクリーンに映す必要はない。作劇上の役割がすでになくなった段階で見せられる。だから、その遺体写真はなおさら露悪的に映る。あるいは逆にいうなら、見せるべき大事なものが、作劇の論理上不要なものとされている。惨劇の様子を語るインディヘナの老人もしかり。この流れでは声だけで十分。
ヘルツォークの映画にほとんど親しんでいない。正直にいうと、どう見たらいいのかずっと考えあぐねている。だから、この映画もいまいち摑みがたいというのが率直なところだ。これはブルース・チャトウィンについて語るふりをして、実際はヘルツォークの自分語りにほかならならず、「主人公は私ではなく、チャトウィンだ」と何度か監督の口をついて出るのが示唆的だ。取材といっても、その目的はただ話を聞くためではない。ここでは自分の話を聞いてもらうことも取材の一部である。
元使用人のお願いに対し、誰も真摯に応じられない。そんななか新婦だけが自分の結婚パーティを抜け出してまで人助けに参じるが、その結果彼女が最も悲惨な目に遭っていく。つまり、一番良い人が一番悪い目に遭うと、観客は一番不快な思いをする、という単純な信念に基づく映画。観客に与える効果から逆算して作られており、その点で映画というより広告の論理に準じた作品だ。不快なお話を見るのは不快でなくても、観客を不快な思いにさせてやろうと意気込む監督の品性は不快である。