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誰のために、誰に向かって、こういう映画は作られるのだろう。誰が何の勝算があって、この企画を通し、挿話を団子の串刺しにした平坦な脚本にGOサインを出したのだろう。誰がテレビのNGのような演出しか出来ない監督を起用したのだろう。佐藤浩市や尾野真千子は何をいいと思って出演を決めたのだろう。感動の実話に縛られたのか。それ以前か。違う意味で泣きたくなった。今、実話の映画化に取り組んでいる自分にとって他人事ではない。こんな映画を作ってしまったら、打首獄門だ。
映画で学んだこと数知れず。コーダという存在もアカデミー賞映画で初めて知った。そして本作でコーダの内面を知る。聾の親は聴者の自分の気持ちが分からない、聴者の世界にも馴染めない。どちらからも疎外感を感じるとコーダの少女は言う。想像すら及ばない孤独。少女は耳が聞こえなくなっていると病院へ行く。聴覚を失ったら、ようやく聾として生きていける。両親や兄を初めて理解できる。でもまたゼロからのスタート?と少女は揺れる。その結末は映画館で学ぶべし。不覚にも泣いた。
遺書を入れた檸檬色の封筒を無作為に投函する少女は、自傷癖の同級生にそれを梶井基次郎の『檸檬』よろしく爆弾だと告げる。やがて二人は「もう頑張るのやめよ」と日常を捨てる。箸がなく手摑みで食べる弁当。こんな見事に解放を表現した映画を観たことがない。建設中の新国立競技場。社会と個人が絡み合う。台詞が上手い。二人も上手い。惜しむらくはラスト。日常に戻った二人は死以外の爆弾を手に出来るのか。難しいのは分かるが、その先を苦しんで見つけないと檸檬にはなれない。
阪本さんの描く半径1メートルの周りには無限の世界が広がっている。こんな小さな話をこんなに大きく撮るなんて。高低差激しい監督作群の中で今回は大当たり。若い脚本家、監督は全員観ろ。冬に咲く薔薇と違い、寒さに耐えて花開かせることを諦めたかのような各世代。アダルトは唯一の居場所を失い、ヤングが得る唯一の居場所は反社という地獄。セカンドチャンスを阻む不寛容な世の中を声高でなく撃つ。その役を伊藤健太郎が演じるというメタ構造。敗者復活のある世界たれ。頑張れ!
吹奏楽にかけた短い人生をうたいあげる青春映画。実話に基づく。前半は学園もの、後半は難病もの。わかりやすくできている。秀逸なのは校舎の屋上にずらりと並んだ高校生たちが踊るYOSAKOIソーラン。モデルとなった市立船橋高校とその生徒、卒業生の協力がないとできないシーンで、さすがに迫力がある。そういう意味でのリアリティーはあって、この映画の魅力は演奏会も含めて高校生のパフォーマンスの再現に尽きる。紋切り型のテレビ的演出をどうこう言うのは野暮か。
アカデミー賞受賞作ですっかり有名になったコーダ(チルドレン・オブ・デフ・アダルツ)のコミュニティーに長年取材してきた監督によるドキュメンタリー。社会の中で疎外され孤立した存在としてのコーダの姿を正面から描いており、その暗部から目をそらさないところに好感をもった。東日本大震災での手話通訳者との出会いから、コーダに興味をもち、アメリカでの取材を敢行した行動力にも敬服する。日本ではどういう状況にあるのだろう。そういうことも気になってくる。
SNS時代の自殺願望をめぐる物語。「死にたい」「死にたい」とつぶやく高校生はいつの時代もいるし、親や教師の無理解と断絶も今に始まったことではない。さしはさまれる梶井基次郎の『檸檬』は100年前の憂鬱だ。それでもこの監督がこの主題に真摯に向き合っていることは痛切に伝わる。例えば温かい布団の中で少女同士が脚を絡めあうショットから。建設中の国立競技場は「日本春歌考」へのオマージュか? というのは評者の妄想だろうが、そんな想像をもたらす力がある。
凡庸な映画に出てくる家族がいとも簡単にわかりあえるのと違って、現実の家族はなかなかわかりあえないし、うまくいかない。そんな、うまくいかない家族のリアリティーを、阪本順治監督が丁寧に掬い取っている。どうにもいかないもどかしさを、もどかしいままに描くところに誠実さを感じる。一人一人の人物を深く掘り下げていて、伊藤健太郎が演じる居場所のない青年の焦燥もよくでている。砂利や土砂を運ぶガット船という背景が表情豊かで、家族と職場の光景に血を通わせている。
20歳で夭折した青年の実話。何かと身構える題材ながら、劇中いわく“昭和の青春”を、時代錯誤と恐れず熱く全力で実践する前半が活き、それに裏打ちされた後半も、深刻な展開が続く中にもポジティブさが一貫して脈打つ。死は生の一部で、逆もまた真なりと自ずと示すことで、彼の年齢を超えてしまった者にも、涙を流す後ろめたさが軽減される。佐藤浩市と尾野真千子の胸に迫る嗚咽が、陽のあたる人気者でなくても自分を想ってくれる誰かがどこかにいると、切実に訴えかけてくる。
何かと話題を提供した今年のアカデミー賞だが、コーダの存在を浸透させた功績は大。タイムリーな本作は、ろう者にも聴者にも完全にはなじめぬ彼らが、米国各地のコーダが集うキャンプでは水を得た魚のごとく駆け回る、青春の光と影を映す。日本滞在経験もある手話通訳の女性が、ろうの両親に懸命に津波を知らせ避難し得た息子さんに、日米の違いを超え同じ“人種”として共感を抱く場面は、言葉にせずとも伝わる、かけがえのない何かを目の当たりにできたような感慨が込み上げる。
死にたがり女子高生ふたりの運命が交錯し、ボルテージが高まる校内アナウンス場面をハイライトに、それに続く肝心の友情ストーリーが、イマイチはずまない。映画には自暴自棄ゆえの破滅的行動を抑止する力があると信じたいし、そんな可能性を秘めた作品でもあったとは思う。正義感が空回り気味のフリーライターが投げ捨てる遺書さながら、数日間の逃避行に並走しつつも、彼女たちの心身の痛みやその変容に向き合い続けることを、途中で放棄してしまったような虚しさが残る。
ひととのつながりや花咲かせられる居場所を求め続け、未来を思い描いては暗雲を招き寄せてしまう、悲喜こもごもの記録。我が子を扱いあぐねて途方に暮れる親や、道を踏み外してでも身勝手な復讐に執着するアウトローら、阪本順治監督作には馴染み深い、愛を伝える術を知らぬ不器用な人物の長短両面を、芝居巧者がリアルに肉付けする。じれったくすれ違う心の彷徨を、道徳的是非など問わずありのまま見つめ、エンディングの先にも想像をめぐらせたくなる、「顔」に重なる力篇。