パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
俺の痰壷はどこだ。すぐ横に置いておけ」義父のセリフ。無言で立ち上がる女性のお腹は大きい。ハアハア息遣いが荒い。倒れた彼女を助けようともしない旦那も自分のことしか考えていない。出てくる女性たちはみんな男に翻弄される。ホントにどうしようもない男どもだ。救いようのない状況をじっと耐える女性たちに同情する。どうにもならないことに流されるしかない日々。彼女たちは、なんとかしようと必死でもがく。その必死さは胸を打つ。ラストの始まりの予感はホッとした。
与那国島には高校がないんやと初めて知る。馬と戯れる女の子の凜とした表情が忘れられない。美しい。彼女は男の子に間違われた話をポツポツと母親に話す。中学生たちの学校帰りのたわいもない話。飛行場を見ながら、CAのアナウンスのモノマネをするのが面白かった。笑って、笑って、ずっと見ていた。この子らは、高校を他の場所で暮らす。ほとんどが帰ってこないのだろう。忘れ去られる人たち。忘れ去られる風景。どこかであの子らに会ったことがあるような気になった。
戦争下の人たちのキツイところをこれでもかと描く。相手側の捕虜が、みんなにいたぶられるとことか。最初は面白がって見ている人たちが、だんだん本気になって殴りつけたり殺せと叫んだり。車を略奪される男のポカンとした顔も忘れられない。冗談でしょって顔が、だんだんマジかよって顔に変わっていくのが怖かった。ブラックすぎる。笑えないのに、無理やり笑ってる感じ。ウンザリした気分で見るしかない。ラストはびっくりした。言葉もない。ただただびっくりした。
最初のカットが怖かった。ホラーなのかと身構えた。自殺志願の女の子が、「今日処女を捨てる」とモノローグが入るとこでワクワクした。ケーキの食いっぷりが凄まじかった。彼女と心を病んだサラリーマンの一夜の物語。2人は、なかなか出会わない。早く出会えよ!とツッコミを入れる。時々入る音楽がいわゆる外国人が考える日本っぽい。芸者、寿司みたいな。2人の設定がナイーブすぎて、80年代でも古いと思われるような設定で、これはどうかと思った。変な映画だった。
私は宿命というものを信じていない。というか、信じたくない。この映画に出てくる女性たちだって宿命を受け入れて生きているわけではない。疑問を持ち、苛立ちを感じている。疑いもしない人間達の古い価値観が、彼女達を何処へも行かせないように引っ張る。彼女達が「妊娠」に振り回されているのが気になる。女であること=子どもを宿すこと、から逃れられないとでもいうように。早く世界中で「あんな時代もあったね」と話しながらこの映画を見られる日が来るようになってほしい。
聞きなれない言葉の音に導かれて、行ったことのないこの島に降り立っている。まるで目の前で起こっているかのように感じさせるこの距離感。子ども達がただしゃべっていたり、ふざけあっていたり、遊んでいたりするシーンがとにかく素晴らしいのだ。一方で、映し出される与那国の詩的な風景にも心を摑まれてゆく。必ず訪れる小さなお別れを繰り返し、子ども達はほんの少し大人になってゆくのだろう。自分のルーツを誇りに思えることは素晴らしいことであると同時に、羨ましいと思った。
全てが作り物のようなのに、驚くほどにリアルなこの世界はなんだろう。戦争へと続く嫌な空気が蔓延している。映画だから、暴力的なシーンにも怪我人がおらず、誰も死んではいない、はず。そんな安心感がない。あの嘲笑の笑いは本当に下卑た笑いなのではないか、と不穏な気持ちになり耳にこびりつく。何度となく、この映画にフェイクニュース用のアクターが登場する。白く厚塗り化粧をしたピエロのような顔。それがこの映画そのものなのかもしれない。すごいものを見てしまった。
孤独な男と女の出会いがマッチングアプリというのはいさささか安易すぎないだろうか。誕生日に処女喪失するか自殺するか。これもまた孤独な少女の物語としては典型である。少女と中年男性の会話から親密さを感じない。男の自分語りが多すぎてなんとなくしらけてしまう。そのハイテンションぶりがラストシーンへの布石だとすると、なるほどと思う部分もあるが、すこし雑だ。ただ、この映画のアンニュイで、官能的なインディーズ映画の空気感を作り出すことには成功しているだろう。
ラストに考えさせられる。待合室に3人。1人は顔を出し、2人はヴェールに覆われている。すると、1人がヴェールを外す。どこか得意気に見える。3人の女性の物語を対比してきたなら、意図は明らかだろう。彼女は夫と義父母への奉仕を強いられる家父長制の犠牲者だが、自己の尊厳を取り戻すべく、ここで伝統と縁を切る。これは無言の宣言である。だが、この瞬間、この映画は「隠す」と「明かす」の作劇に回収されてしまう。「驚いた?」と言わんばかりのドヤ顔。それは監督のもの。
島からは固有の言語がなくなろうとしている。毎年、中学を卒業した少年少女が進学のために島を離れる。しかしこの映画には「消滅」と「出発」のイメージだけがあるのではない。夜、暗いなかに馬が出現し、ふと画面を通り過ぎるショット。それは昼の時間が終わり、馬が一人で小屋へと戻る姿だ。あるいは、休暇を利用して都市から島に戻ってきた少女。彼女は馬に乗って丘に登り、飛び立っていく飛行機を見送る。「帰還」と「出発」を縦の構図の中で交錯させる美しいイメージだった。
始まりと終わりをフェイクニュースの撮影現場とするのは、この映画も同類と告げるため。わかりやすい作りだが、けっして居心地のいい作品ではない。主な原因はカメラの地位が安定させられないこと。しかも、あえていうならそれこそが本作の唯一の目的なのだ。手持ちでカメラの存在を強調するかと思えば、劇映画に特有のカット割りによってカメラの透明性に焦点が当てられる。その点、一度だけ動揺を隠さなかったとはいえ、あくまで記録に徹した「Maidan」(14)と大きく異なる。
冒頭の後退移動で嫌な予感はしたが、その後の「私は21歳で、処女です」のオフのつぶやきでほとんど確信に変わった。「今日は21歳の誕生日。今日中に処女を捨てられなければ、私、自殺します」。自撮りでそう誓う孤独な少女が、仕事と人生に行き詰まった40代の既婚中年男性と出会う。おじさんファンタジーのあられもない垂れ流し、まったく見苦しいかぎりである。なお、アジア人の顔を「能面」「感情がない」などと平気で形容してしまうあたりに監督の差別意識が露呈している。