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チェルノブイリがウクライナにある、という事実が改めて忌まわしさを加速。地名の読み方の変更も噂され、そのうち旧チェルノブイリと呼ばれるようになるのかな。原発の詳細は事実、ただしキャラクターはフィクション、という作りを評価するか否か、ここが鍵。チームによるミッション遂行・挫折・再試行という映画的趣向があくまで企画の半分になっちゃうわけだ。もっとも問題の事故現場の迫力自体は凄いことになっている。少年が撮影してしまったフィルムが活用されないのは残念。
潔癖症の若者と肉食系女子の恋というのはアジア映画に昨今ありがちな路線である。しかし二人がアクシデンタルに出会ってしまうまでのバックストーリーが徐々に明らかになる過程が実に可笑しい。何かと不愛想な霊柩車の運転手をはじめ、脇のキャラも充実。CGを効果的に用いて、おとぎ話っぽく変換された最後の街角の光景には、現代中国へのアイロニカルな視線も漠然と感じさせる。とはいえ、それらをひっくるめて物語は結局、現状肯定を強迫的に明確にさせられている印象が強い。
現代文学のカリスマと言えばサリンジャーをおいて他にない。本作は彼の意外と気さくな側面がユーモラスに描かれ楽しめる。とはいえ「意外」っていうのはエージェントが読者を欺いて作り上げたイメージに基づいている。そこを暴くのも本作の眼目。本来シヴィアな企画(のはず)なのだ。ところが原作者(主人公のモデル)に配慮して作りが甘い。上司や先輩を蹴落としてのし上がりました、という主人公のあり方をなるべく曖昧にしてある。それゆえ、画面は凝っているが★は伸びない。
映画は一秒で連続写真が24コマ進む、ということをタイトルは示す。そこに映し出される被写体を巡る物語。と記述した程度では、映画を説明したことにならないか。文化大革命で罪人となり、収容所に送られた男がたどる数奇な運命。と言っても分かる人は限られる。かくいう私もこの愚挙政策について現在の中国政府がどういう態度なのか知らない。監督の青春時代の記憶に触発された好企画。ではあるがいつの間にか、この監督の映画はどこかで見たような画面の連続になってしまった。
日本公開決定後にロシアによるウクライナ侵攻が始まった政治状況を加味すると、より別の様相を呈することになるであろう本作。「チェルノブイリ原発事故」を描く映画にあって、別れた恋人同士とその息子を巡るメロドラマが過多な点にはおそらく批判が起こりそうなのは想像に容易いが、そうした娯楽的枠組みを借用しながら政府への批判的視点を忍ばせているのも十分伝わってくる。事故に関わった幾人かの人間の感情にじっくりと寄り添っていく手法は、新たな切り口を提示してくれる。
重度の潔癖症である主人公の無機質な部屋や、ヒロインの色彩鮮やかで雑多な部屋、精神病患者の集まる人工的な自然園など、メリハリのある画面展開は観客を決して視覚的に飽きさせない。監督と脚本と演者を兼任したチャン・ユエンの、目に表情のない顔を使った独特な芝居が特徴的。しかしながら、映画というよりも企業が作ったキャンペーン動画や広告動画を観ている感はやや否めない。ここでもSNSや動画配信サイトのリアクションが、世界からの受容を表現するお気軽な便利道具。
サリンジャーの姿はほぼ映さず、その場にいないはずのサリンジャー宛の手紙を書いたファンの姿は映される。そこに、映すところは映し映さないところは映さないという作り手なりの美学が浮かび上がる。主演のジョアンナ役のマーガレット・クアリーが踊り始めた瞬間、彼女の身体性は彼女がバレエダンサーでもあったのだと語り出し、それも一種の仕掛けのようになっている。このように、サリンジャーを扱う映画は定期的に世に出されるが、本作はささやかで洒脱なマジックに満ちている。
映画というメディウムについての巨匠チャン・イーモウなりの純然たる寓話。寂寞とした砂漠地帯の遠景ショットが何度も反復させられることにより、映画館の密集性は殊更強調される。コロナ禍によって一時的に失われたそんな密集性やデジタル化によって失われていったフィルムの持つアナログ性に対する懐古趣味的なロマンに満ち満ちている。「初恋のきた道」などに代表されるイーモウ映画のヒロイン像もかつてより何ら変わらず、それもこの作品の懐古趣味の一翼を担っているのだろう。
「ハードコア」などの挑戦的な表現を用いる作品に出演し、俳優としても名が知れた監督による本作はステディ・カムを多用し、劇映画らしい詩情、映画らしさを追求した一作といえる。しかし、同じ歴史的事件を描いた映像作品で、テレビドラマでありながらも限りなく映画/歴史的な何かに漸近していたHBOの『チェルノブイリ』と比べると、寂しい出来になっている。粗雑な脚本とマッチョな英雄譚は「チョルノービリ」を盾にする国家による国威発揚映画にすら見えてしまうほどだ。
ハッピー・ムービーをうたう本作が人類の中のどういった層に向け制作されたのか、筆者には見当もつかない。予定調和で幼稚極まりない物語と、KーPOPアイドルのMVのようなポップな色が躍り、影のない画作りから推測するに、恐らく中国の少年少女たちをハッピーにするために作られた作品なのだろう。映画の蝶番になっているはずのミュージカル・シーンは楽曲のクオリティが低すぎて何の説得力もなく、東アジアにおけるメジャー映画の存在論的悲哀と向き合うだけの時間が過ぎた。
結局は全部モノローグで自己完結してるじゃん、ていうかヒロインはせめてサリンジャー読んでから代理人気どろうよというツッコミは野暮か。全篇通じて丁寧に演出されてはいるものの、映画的に突出した見せ場があるわけでも、持ち帰りたくなる逸話があるわけでもない本作は、よくある野心溢れるキャラクターによる業界サクセスものである。それでも、マーガレット・クアリーのお母さま譲りの深遠な瞳と、誰もが大好きサリンジャーの固有名詞に支えられ、悪くはない余韻が残る。
焼け焦げた龍のように埋葬されていたフィルムが人民の手によって息を吹き返し、神々しく復活する。デジタル全盛の時代に、銀塩フィルムのマテリアルとしての価値を再び問うという本作のアティチュードには涙せずにはいられない。一方で見逃してはならないのは、濁りや粒子などの穢れをことごとく排したように見える本作自体のデジタルな手触りである。監督が参考にしたであろう、ジョン・フォードや黒澤明だったならばどんなデジタル映画を撮っていたのか想像せずにはいられない。