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可愛げのない主人公の女の人が、だんだん可愛く見えてくる。バタバタ部屋を行き来する。乱暴にドアを閉める。娘を探して半狂乱になって歩き回る。泣き喚く。理想と現実がこれほどまでに離れてしまうと人はどうなるのか? 彼女は転がっている死体を平然と眺める。彼女の感情を抑えた表情と動きに持って行かれた。かっこいい。そして哀しい。権力を持った人たちがどれほどアホなのか。ロシアの監督が、こんなにもロシアがひどかったというのを冷静に描いていることに驚く。
これがたった20年ぐらい前の実話だったっていうのが驚き。ついこの間こんなひどいことが起きていたのだ。導入は見事。すぐに爆発が起こって話が始まる。展開が早くていい。困難に次ぐ困難で息をもつかせぬ。主人公の男が、実にしっかりしたリーダーで惚れ惚れする。男たちの友情話もグッとくる。みんな死にそうになって、太った男がシロクマのアホな話をするのが良かった。ラストはびっくりした。フィクションとして史実を曲げるわけにはいかなかったのだろうか。無残だ。
鳥の声が怖い。母親のキャラが怖い。父親の笑顔が怖い。弟のいじけぶりが怖い。少女の真っ白な服も怖い。思春期の女の子の何考えてるか分かんない不気味さとエロさがある。拾った卵がだんだん大きくなって、怪物が生まれるってアイデアが突飛でいい。怪物がグロ可愛い。可愛くて凶暴。動物がどんどん殺されていったり、人の手が切り落とされたり、直接描写はないんだけど、ゾッとするほど残酷だ。全体が明るい雰囲気で変。母親が包丁振り回すとことか、おかしかった。
男たちがとことん情けない。だらしなくて偉そうで最低だ。女たちがムカついて、でもうまくいかなくてイライラしているのがよく分かる。追い詰められて、とっさにアナーキーになる主人公にシビれる。捨て身の彼女の追い込み方がハンパなかった。やった!ってなった。バングラデシュの裏路地の汚いところがちゃんと映っている。野良犬が暇そうにたむろっていたり、子どもらが地面に座り込んで遊んでいたり、縫製工場の湿度が高くて暑くてウンザリする感じとかも良かった。
祖国と何か。そんなものは幻想であると言い切ってしまえば簡単だ。理想と現実の板挟みになるのは常に労働者であり、労働者たちは生活を守るために闘わねばならない。家族とは何か。そんなものは所詮、他人同士が集まった最小限の共同体だと言ってしまうのも簡単だ。冷たくて暗い川の水面に、季節外れの花びらが舞い降りてきたような、そんな瞬間を垣間見た。緊張感が走るなかに思いがけない温かみがある。この映画で流れた血は果たして何色だったか。モノクロに思いを馳せる。
救いのない結果が待っているのをわかっているからこそ見ているのがとても辛い。どんなに奮闘しても、その先に何が起こるかを知ってしまっているから、彼らの歌が辛く響く。同時に、極限状態に追い込まれ連帯するしかないこの状況を、美しいなどとは決して言いたくない。待つ側の苦しみが窒息していく苦しみと重なりゆく。母親としての貫祿がありレア・セドゥが一瞬誰だかわからなかった。この事故の裏でプーチンが休暇を満喫していたことも映画とともに忘れずに記憶しておこう。
ラストで、卵から生まれてくるのかな、と思ったらあっさりそれは生まれてしまう。明らかに異形だったそれがだんだんと姿を変えてゆく不完全な姿が恐ろしくも美しく魅了される。人間のようで人間でないものが一番怖い。完璧を求めキラキラした母親の笑顔も不自然で怖いし、主人公以外の家族全員に苛々させられ、始終、口ばしでこめかみを突かれるような、可愛らしい不快感が続いた。ピンクを基調にした乙女チックなコーディネートの部屋がなんともいい味で煽って来る。攻めの映画だ。
いくつもの層になって困難が現れ、女性たちにのしかかる。労働環境の問題をメインには描くものの、家庭環境における問題もまた、余すことなく描いている。とはいえ、ほんの一部分に過ぎないのだろう。女性の地位はとにかく低い。仕事場でも家でも男たちは大声を出し、抑圧しようとする。女性たちはともに手を取り合うしかないが、この過酷な環境がそれさえも容易にさせない。これが、物語のキャラクターなのだとしても、主人公シムのパワフルさがいま必要なのだと実感させられる。
リューダは矛盾を一身に体現する存在だ。公と私、忠誠と裏切り、過去と現在、敵と味方、彼女の中ではあらゆる対立が同居している。人混みがあっても並ぶことなく、誰もが逃げ出す場所へと逆流して赴く。冒頭、彼女の姿が鏡を通して反転された形でしか映されないのは示唆的だった。ノヴォチェルカッスクの虐殺はソ連という国家が孕んだ矛盾そのものだったのかもしれない。労働者国家に生じた労働者の反乱であり、国家は市民を虐殺しておきながら、痕跡を消してなかったことにした。
救出を待ちながら死んでいった潜水艦の乗員たちの最期をもとに、手に汗握る感動のドラマを作り上げよう。きっと司令官は全員で生き延びるために身を賭したことだろう。死の恐怖から冷静さを失い、無謀な脱出劇を試みようとした者が、みなが心身ともに弱っていくなか、つまらないジョークで場を和ませた者がいただろう。最後は新人がヘマをしでかして終わったのだろう。なんて品のない想像力だ。これではただの死者への冒瀆と思える。時代錯誤の反共プロパガンダのまがいもの。
最初から最後まで反応に困り、頭を抱えるばかりだった。ふと念頭に浮かんだのは、抑圧しているものがアッリとして生まれてしまうのだとすれば、ティンヤだけではなく、全員分のアッリが出てきて、アッリとアッリで対決するような展開の可能性だ。少なくとも母親のアッリは出てきても不思議ではないはずだ。しかし、出てこないということはそれだけ彼女は精神的に安定しているということだろうか。それとも彼女にとってのアッリはSNS上で演じられる自己だということなのだろうか。
エイゼンシュテインの「ストライキ」(25)はストライキを描いた映画ではなく、ストライキを敢行するための道具と手段を提供する映画だった。カット割りがむしろアメリカンなため見えにくいが、本作はまさにその系譜に連なり、本来なら「ユニオン」と題されてしかるべき作品だろう。観客はシムとともに労働者にも女性にも人権があることを学び、搾取の実態について知り、組合の立ち上げ方を習得していく。そして、スマホの使い方と数々の障害にも負けない力強さをものにするのだ。