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同じ原作者の『デトロイト・メタル・シティ』実写化のヒットはあったものの、それも14年前のこと。「よくこの企画が東宝で通ったな」というのが観る前の正直な所感だったが、それは鑑賞後も変わらない。企画以外の欠点として特に気になったのは、一部の日本映画によく見られる、まったく演出意図が不明な逆光を多用した照明と、成年してからのキャラクターとは似ても似つかぬ子役。伊藤英明がプロに徹して作品を背負っていることで、ところどころクスッと笑えるやりとりはあったけれど。
周知させたい正しい現状認識と正しいメッセージを、最小限のドラマの起伏とスローガン的な台詞の数々で綴っていく。教科書的なカメラワークや編集、簡素な劇伴にいたるまで、すべてが運転免許試験場の違反者講習ビデオのような本作に問題があるとしたら、これが違反者講習ビデオではないということだ。つまり、違反者講習ビデオは「違反者」に強制的に視聴させるためのものなのでツールとしての効果はあるが、本作には予め共感するであろう人たちの外部に向けた工夫が見られない。
世の中うまく言ってるようでよく考えると「なにそれ?」みたいな迷言には事欠かないが(Jポップの歌詞とか、オンラインサロンの主宰者の言葉とか)、本作の「さくらは下を向いて咲くんです。私たちが上を向くためにね」という台詞はその最たるもの。そういうご都合主義が作品全体に及んでいて、人物造形よりもまずは設定ありきなキャラクターたちの背景が、帳尻合わせのように後から説明されていく展開に冷めてしまった。晩年まで不変だった、宝田明の上品さを追想するための作品か。
過去10年でテレビドラマとして2回映像化された原作を今改めてわざわざ映画化するのであれば、この物語の根幹を成している地域共同体称揚、鉄拳制裁容認をはじめとする昭和的価値観を対象化した視座もほしいところだが、まるで「ALWAYS 三丁目の夕日」を思わせるほどまっしぐらにノスタルジー全開、センチメンタル全開な作品世界の中、阿部寛の暑苦しい絶叫演技が繰り広げられるばかり。どんなベタさも厭わない、瀬々敬久監督の実直な作家性が裏目に出たのではないか。
週末、おっと〈終末の戦士〉に対するディスりの切り口が、原作者は別だが「翔んで埼玉」調のアナクロ脱力系。それもそのはず、脚本は同じ徳永友一で、さしずめ翔んだカッペイ、翔んだ終末の戦士たち。カラ騒ぎに終わった〈ノストラダムスの大予言〉の遊び方として、この設定、無責任に笑わせる。が娯楽作に水をさすのを承知でいえば、やはり彼らに嘘でもいい、人類の救世主になって欲しかった。いくら映画の中でも人類に終末は来そうもないなんて断言できないのが世界の現実。
仕事と子育て。働きながら子どもを育てている女性たちの大変さは想像に難くない。けれどもここで描かれる2人の女性の話は、いかにも都会の、経済的には不自由のない生活を送っている女性の自己実現に関する悩みで、それがいまいちドラマを表面的にしている。働きながら子育てをしている女性の中には、経済的な理由で働かざるを得ない人も少なくないのが実情なのに。子育ては妻任せという夫の描き方もパターン通りで、企業が家族留学なるイベントを企画するのも唐突で違和感が残る。
宝田明の穏やかでユーモアのある終活アドバイザー役は申し分ない。役のエピソードに自身の子供時代の体験をさりげなく使っているらしいのも説得力がある。が気になるのはかなり取って付けたようなタイトルと、終活アドバイザーをバイトにしている不登校の女子高生。えっ、バイト? 常識的に随分、乱暴な設定にもかかわらず、相談者が訪ねて来ると宝田と並んで話を聞く。そして彼女が思いつく、CG加工による満開の桜の写真。岩本蓮加を売り出す為のヤラセ的美談?が目立ちすぎ。
重松清の原作は未読で、内野聖陽主演のドラマ版も観ていないのに、この映画版、観る前からすでに既視感が強く、これには我ながら戸惑った。きっとどこかで昭和の父親の典型のような主人公の情報を見たか聞いたかしたのだろうが、こちらのそんな妄想的な既視感通りに映画が展開、更にいえば周辺の人たちの昭和的なお節介や人情もいつか見た光景。いや、そういう懐かしい話だからこそ映画化されたのだろうが、親の心、子知らず、という成長した息子の終盤のエピソードはちと痛い。
最近の邦画では最も主人公の感覚を我が事のように感じた映画だった。私はノストラダムス大予言の1999年を二十代半ばで迎える生まれ年で、ハイティーンくらいまで非常にシリアスに、血尿が出るくらいにスポーツをやっていたので、原作漫画以上に血肉を与えられた実写版勝平=伊藤英明ら終末の戦士の力みかえりや俗世が軟派に見える感覚が懐かしかった。終末や悪がない世界でヒーロー(かぶれのガキ)はどうする?という、少年漫画的世界観の終末と、そこからの再誕という主題も。
子どもを持ち、育てる際に女性ばかりが忍従を強いられることについての具体的な描写にあふれていて重要かつ必見の一本。この社会は子育ての重荷を容易に女性のみに負わせるようになっている。それに胡坐をかく男のクソさについて本作はまだ相当お手柔らかに語ってくれていて申し訳ない。今回本欄の別作品「とんび」が田舎の美質として語ったのは、本来的に子育てが親ひとりや一家庭ではこなせぬもので周囲が支えた、ということだが本作ではもはやそれはSOSとして求められている。
都内の映画館でナマで遭遇する宝田明氏は美しい巨人であった。1930年代生まれの身長180センチは現代の体格とは違って奇跡的な貴種の気配があり、芸歴とご本人の気質の明るさ軽さに戦中戦後体験の重さが混交されてマーベラスな存在となっていた。本作が宝田氏の完全に本気の、日本の戦後倫理観がこれからもあらゆる局面で人を救いうるのだ、という遺言的映画になっていることに感動した。それに感謝もする。徳井優も美しかった。岩本蓮加を捉える仰角に確信があるのも良い。
いまだにピンク映画館で新旧のピンク映画を観るが、そこではまず登場人物たちが偉ぶってないということがあり(痴態満載ではかっこつかない)その人間観に自分は魅かれる。監督瀬々敬久氏がピンク出身というのもいまさらの話だが、近年の氏が手掛けるメジャー作品、特にいい話系統のものの、一見誇るものなく偉くなくとことん庶民でしかない者の埋もれた輝きを、行政だの天皇制だのを超えるものとして一本の映画の時間をかけて見せていく仕事は変わらずブレていないことだと。