パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
なぜ時制をいじくりまわし、わざと分かりにくくしているのだろう。時制を戻せば、ダンスやってる女と男がいて、留学賭けた学内大会で男が勝つけど怪我して、女が代わりに行きましたという、ありがちな話だけ。だから目眩しでそういう技法に走っちゃダメだって。元の話を面白くしなきゃ。だいたいダンスへの想いが伝わってこないし。迂遠な会話も人間関係の本質に迫っていない。本質は今も昔も変わらないから、フォルムだけでも今っぽくしてるのか。それって決定的につまらなくないか。
黒井千次の原作は主人公の読む本の中に留まる。原作部分は画面サイズが変わり小説が朗読される。黒井自筆の原稿用紙さえ映される。「偶然と想像」が言葉を映画的に見せるという圧倒的到達点に達した同時代にこれでいいのかと思う。オリジナルのドラマ部分がまたチンケで、それが小説とどうシンクロしているのか分からない。なぜモノクロなのかも。「言葉が働いて生み出された人物は必ずしも想像とは限らない」と劇中黒井本人が言うが、それを文学と闘わない免罪符にしてはいけない。
ここで取り上げる映画は何の情報もなしに観る。プレスも何も読まない。本作もそうして観始めた。最初、何の映画か分からない。人喰い族を探す映画かと思う。やがてムラブリという400人程度しかいない民族を初めてカメラに収めた映画だと分かる。彼らはタイとラオスの森深く3つに別れている。仲違いが原因だが、そこに国境という恣意的なものが見える。ナレーションを入れればもっと見易く面白くなったろう。映画とは何か考える。本誌前号の特集を読んでから観ることをお勧めする。
内田英治は器用だと思う。ただそれがいい方向に作用していない。ガイ・リッチーの初期をショボくした感じではいけないと思う。同じ時制を違う視点でやるという魔法は便利な発明で上手くいけばいいけど、下手にやると無惨。本作は悪い例で、実はこういうことがありましたというタネあかしが説明に過ぎず面白くもなんともない。脇役にはイロがあるが、主人公ふたりに魅力がない。高校野球の挫折も効いていない。藤澤浩和も「レディ・トゥ・レディ」の乱暴な良さがなくなってしまった。
これは一種のシチュエーション・コメディなのだろうか。舞踊や演劇を教える大学が舞台で、学生や教職員が登場人物。さまざまな組み合わせのダイアローグが連なる形で、現在と過去の物語が並行して進む。個々のダイアローグは笑いを誘うようにあえてぎくしゃくしていて、アクションの要素はほとんどない。ままならぬ状況とかみあわぬ対話だけで見せていく。さて、そこから何が見えるのか。小噺のようなシークエンスごとにぶつ切りになった人物の感情の流れが私にはつかめない。
「ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ」で佐野洋子の絵本をテキストに、その根元にある死生観を浮き彫りにした小谷忠典監督が黒井千次の短篇小説に挑んだ。国立と国分寺にまたがる坂の名の由来を探る物語。初老の勤め人の真情がにじむ原作を、女子学生の自分探しに編みかえた。大学、図書館、果樹園、小川といった国立のあちこちの光景、古い写真、自筆原稿、RCサクセション、さらに落ち武者の幻想や子守唄の記憶から、日常と夢想の回路が浮かび上がる。
ラオスの奥地のムラブリ族の子供たちに、日本の学者がスマホで撮った彼らの映像を見せているシーンに軽い衝撃を受けた。ジャン・ルーシュがアフリカのドゴン族を撮って、フィルムをその集落で上映して見せたという行為が、今は即時に片手でできるのだ。それは映像人類学の可能性をさらに開くものだとポジティブにとらえたい。今も森で暮らす狩猟民の夫婦喧嘩がリアルに撮られているのにもびっくり。夫婦とは、家族とは、部族とは。社会の諸原理を考えさせられた。
甲子園出場の夢が絶たれた元球児の不良二人組がドラッグとアメ車に手を出したあまり、ヤクザと半グレに追われ、悪夢のような1日を過ごす。ひと昔前にはやたらとあった不良少年のバディムービーなのだが、今となっては懐かしい。主演2人のイケメンはともかく、半グレの親玉の後藤剛範の存在感が相変わらず強烈。それはそうと冒頭に念入りに高校野球のシーンを見せながら、最後まで「二死満塁」の状況が生きてこないのはなぜだろう。やっぱり設定が時代遅れなのか。
岐路に立つ二組のカップルの過去と未来が、同じ大学を舞台に次第に交錯するにつれ、何かを得る代わりに失う痛みや、反作用で、ささやかな喜びも込み上げる。超身勝手なくせに女性にはモテる先輩の減らない屁理屈が、正論だけでは如何ともし難い世の矛盾もコミカルに突く。そんな笑いへの助走が長く回りくどいせいで、尺を食いがちなのは一考の余地ありだが、微妙に嚙み合わない対話でも、懸命に続けることで相互の意思を伝え合おうとする、不器用な男女がチャーミングな青春群像。
ユニークな坂の名前の由来を追いつつ、幼い頃に母を亡くした女子大生が自身のルーツをもたどっていくが、そのきっかけを与える近未来の就活風景にリアリティが乏しく、出鼻をくじかれる。七里圭監督の飄々とした語りも魅力の、原作の朗読パートが醸す生活感とは裏腹の、読書の世界に没入していく主人公を取り巻く、妙に波乱ずくめな物語の作りものっぽさ。モノクロームの映像も、時空の歪みや虚構と現実の境目を曖昧にし、トーンのちぐはぐさを軽減するための選択に思えてしまう。
ほぼ姿を見せない少数民族の生活の撮影に初めて成功したとのことだが、殊更に希少性や特異性を強調しない、アットホームな空気がいい。その立役者で、コミュニティに溶け込む言語学者の伊藤雄馬氏の柔らかな佇まいが、おどろおどろしい伝承を噺家のごとく披露する男性の名調子や、不在がちで追い出した旦那に未練も覗かせる女房のツンデレな愛らしさなどを、絶妙に引き出す。無文字社会ゆえ互いに無知だった、タイとラオスのムラブリ族の初対面シーンには、グッとくるものがあった。
最悪、どん底とのたまう割に、野球への情熱や夢破れた挫折がイマイチ伝わらず、終始お気楽そうなふたりに感情移入しづらいため、そんな彼らの絶体絶命からの逆転劇にも、高揚感は得られず。むしろ、途中参戦の元野球部マネジャー(工藤遥)の地に堕ちた感が何気なく壮絶で、前途洋々なはずの彼女に何があったのか、そちらの方が気になる。映画オタクの昔気質なやくざ(渋川清彦)ら個性派キャラクターも、タランティーノごっこの域に留まっているような、もどかしさを残す。