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タイトルが映画の最後にようやく出る、というさりげないギミックが効果的。でもこのお父さん(リチャード)は王というより道化なんだよね。なので使われているストック・フッテージ(最後に出る)の方が可笑しい、ということになっちゃった。ただしウィル・スミスのキャリアには前世紀後半の黒人史を体現するという野心が時折見られ、本作も好演。アレサ・フランクリンの伝記映画同様この映画の主題も「リスペクト・ユアセルフ!」としていい。ニーナ・シモンの歌声もグッドグッド。
主人公(認知症者)の現実(一日)を、妄想をからめた彼の二つの過去の一日に交錯させ描くという発想。しつこい現実音の取り入れ方が巧みで飽きさせない。ただし物語が無茶。主人公の娘さんが自分の人生を左右する可能性のある仕事日に、わざと親父さんを歯医者と眼医者に連れていくというのが分からない。キャンセルしなさい。苛立つ方が間違ってるよ。語りが滑らか過ぎて観客を驚かせる趣向がないのも評価できない理由。妄想こそが現実だ、という無茶ぶりで良かったはずなのに。
試写で二年前に「シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!」を見たばかり。で、やっと公開か、なんて勘違い。もちろん別物の新作だ。驚きの設定チェンジは最近好評だった舞台版から来たもの。主演コンビと作者も続投。究極の純愛物語とはいえ、ロクサーヌを巡る恋愛は三人がそれぞれ二人と自身を欺いている感覚が濃厚。それ故、愛の言葉も「実質を超える過剰こそ愛だ」という倒錯になる。レトリックこそ愛なのよ、という。設定が変わったことでそこが強調され分かりやすくなった。
公権力による市民へのあからさまな暴行の様子が捉えられており、見続けるのが辛くなる。が、色々な意味で傑作。21世紀的な技術の進歩により、巧妙な映像操作が(プライヴァシー保護のために)用いられている、とのこと。作品を鑑賞したくらいでは手法が分からないほどだ。LGBTを嫌悪する独裁者の肉声も酷い。「チェチェンに同性愛者迫害は存在しない。何故ならチェチェンには同性愛者が存在しないから」というこの映画を象徴する一言が怖い。独裁者の後ろ盾はプーチンだそうだ。
人種の権力構造には敏感な父親がジェンダーのそれとなるとあまりにも鈍感でしかなく、そんな頑なな父親と周囲との諍いの時間が長すぎるのに徒労感をおぼえた。ウィル・スミス主演であり父親の方に焦点をあてられた作品であることを承知の上でもなお、才能ある娘がキャリアを進めていくにあたってすべての「黒人女性」の代表性を纏って商品化されてしまう危うさを丁寧に掬い上げてほしかった。とはいえサクセスストーリーへのカタルシスもあり、試合シーンの臨場感も素晴らしかった。
サリー・ポッターはかつて監督・脚本を担当した「オルランド」で、ヴァージニア・ウルフの原作小説を深い理解とともに換骨奪胎させて見事に映像化していた。性の境界を自由に往来するティルダ・スウィントンが本作では時空間を自由に往来するハビエル・バルデムへ。しかし新作も幻想的な物語を紡いでいく手法は通じるものの、何かが物足りない。父親の「選ばなかったみち」を観ていたのか、娘の「選ばなかったみち」を観ていたのかが攪乱させられるような結末の仕掛けには唸ったが。
知性のあるヒロインに片想いする二人と手紙の代筆という物語構造は「ハーフ・オブ・イット」と同型をなぞり、込められたメッセージは時代の差異を超えて共有される。ジョー・ライトは「プライドと偏見」や「つぐない」を筆頭に時代劇のイメージが強いが「路上のソリスト」等を観てもジャンル問わず演出力が堅実にあるのは伝わるものの、そつなくこなすためか印象が薄い。「シラノ」もワンショットずつ絵画を描くように撮られており、そんな生真面目さを感じる仕上がりになっている。
匿名を担保するためにディープフェイク的な手法を使用した前情報だけを入れて観終わった後にプレス資料を確認し、それがここに映し出される性的マイノリティたちの人間性を損なわないようにするためということを知って胸打たれた。不当に姿を消され、声を奪われてきた性的マイノリティを巡る歴史に対する思慮深さが感じられる。ただ拷問や自傷行為など直接的な描写が差し込まれるため暴力性も高く、(とくに近い属性や経験を持つ観客にとって)鑑賞には注意が必要なように思われる。
コーチ、教官、監督、父、王、呼称は何であれ、他者に身体的な動作を命じる地位についている存在の不可思議さについてずっと考えていた。非常にシンプルにそれぞれのキャラクターがそれぞれの信念=信仰をもって夢の実現に取り組む姿が演出・撮影されていて、容易に他者の侵入を許さないシングル・ショットの連続は、アメリカ的な「独立した個人」なるものを強く感じさせながらも、彼らが近づいたり離れたりしながらも共存し生成されていく「アメリカ」の強度をも浮き彫りにする。
巨匠が盛りを過ぎた頃に撮りがちな、監督自身が投影されたであろう老作家が今までの人生を振り返り、何らかの救いを見出すシリーズ。NY、メキシコ、ギリシャを舞台に起きる、ぐうの音も出ないほど素朴で小さな出来事の中を、いつもの「演技をしていないように見えるけど実はかなり細かくしてます」感がバッサリと削ぎ落とされフラットになったハビエル・バルデムがさまよい、それを演技派女優への転身を図っているであろうエル・ファニングのオーバーだが好感が持てる芝居が支える。
ミュージカル映画が流行している一方で、歌が残らない作品が多いのも事実。そんな中、ミュージカルというからには当然良い歌を聴かせてくれるよなという観客の期待を裏切ることがない本作は貴重な作品と言える。歌唱も良いがザ・ナショナルのメンバーによる曲も良い。ジョー・ライトの演出もやや息切れする終盤まではファースト・シーンから冴えており、名匠S・マクガーヴェイによるドガの絵画のようなルックは豊かな美術や衣裳を乱反射させ見事な幻想世界を現前させている。
こうした筆舌し難いほど痛ましい出来事が今も世界のどこかで起きているのだという問題提起映像としてはじまり、章ごとに挿入される凄惨な暴力動画がもはや映画の範疇をも超えた、匿名のグロ動画にしか見えなくなってしまった瞬間に、暴力の矢印はスクリーンのこちら側にいるわたしたちに返ってくる。そう、本作の真の恐ろしさは、2時間も待たずにかくも恐ろしい事象に麻痺し、あっさりと馴致されていくわたしたち自身にある。人の顔ですら01の羅列でしかない世界へようこそ。