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アメリカン・コメディは日本でなかなか劇場公開されないから観られるだけでもありがたい。日本公開を可能にしたのはやっぱり歩くモフモフの魅力なわけで、今回もそこは全開。好みは分かれるだろうけど、笑いのポイントを次々設ける努力に頭が下がる。個人的には、アステアとバズビー・バークリーへのオマージュを盛大に捧げてるタイトルバックにニコニコしまくり。アマンダ・セイフライドが歌うシーンも(ちゃんと笑わせる工夫もしつつ)ミュージカル映画の気分を出しているのが立派。
バックステージ物は大好物だから面白く観たが、観る前に想像したものを1ミリも超えてくれなかったといううらみも。一カ所だけ驚いたのが、ストイックな芸術家/アスリートにしか見えなかった少年たちが、中学校の卒業式でみんなと一緒に歌を歌ったりした途端、年齢相応の「子ども」に見えたこと。となると、ほかの同級生たちが彼らをどう見ていたのかなどが知りたくなるのだが、そっちへ行くと「バレエの美しさと厳しさを表現する」という監督の狙いからは離れてしまうのだろうな。
見せ方がバカ丁寧すぎると思える箇所がいくつかあるけれど、押しつけがましさがないので嫌な感じはしない。両親のなれそめを語る子どもの文章や、テレビのドキュメンタリー番組を使って状況を説明し、コミカルで明るい感じをキープする前半が好感度高いが、後半のシリアスさへの転換もわりとスムーズ。「群盗」での鮮やかな演技も記憶に新しいカン・ドンウォンと、ソン・ヘギョの美男美女コンビが青春スターのような魅力を発揮し、子役の熱演を受け止めつつ、成長していく両親を体現。
ミステリーではなく、ダンテの『神曲』と『新生』を下敷きにした再生の物語。人間の悪意を嫌というほど目の当たりにし、どん底まで気持ちが落ちたことで復活を遂げる主人公が、それらの悪意を直接ぶつけられているわけではないのが、この映画の煮え切らなさにつながっているような。新作を構想する映画監督という意味で「8 ½」の系譜につながる作品であり、「甘い生活」みたいに浜辺の少女まで出てくるのだが、現実と幻覚とをサービス精神なしに往来するのがウィンターボトム流。
外見はかわいいテディベア、中身はとめどなく汚ッサンというテッドのギャップありすぎキャラを押し出しただけの感があった前作。それはそれで充分に楽しめたが、今回は意外としっかり法廷ドラマしており、しかも争点がなかなか深淵なものだったりする。それでいて手コキやぶっかけを交えながら精子をめぐるネタだけに冒頭30分を費やすなど、下品にかける熱量が少しも冷めていないのは立派である。在りし日のRKOかMGMのミュージカルを彷彿させるオープニングは出色の出来。
憂いの美少年系、さわやかなマッチョ系、気弱っぽいアジア系。同じ中学校、同じバレエ学校に通う3人の容姿が、うまいことバラバラである。しかし、全員が真面目な良い子でギラついたところや闇がかったところが見当たらず。そこへ「セッション」のごとく狂った先生でも登場すればいいのだが、そうもならず。というわけで、厳しい世界を見つめてはいるが、グワッとしたドラマがくることなく終わってしまった。サバイバーの『アイ・オブ・ザ・タイガー』に合わせて踊る場面は見もの。
「ジャック」でロビン・ウィリアムズはそのままで早老症の10歳男児を演じたわけだが、だからといって本作でキム・ユンソクやソン・ガンホなどが少年を演じているわけではない。少年の設定や置かれた環境、妙にキラキラしたヴィジュアルから、なんだか〝泣けるCM〟を繋ぎ合わせたものを観せられている感じになる。とはいえ、ひとつひとつの感動描写はえらくあざといのだが、気を許した途端にウルッときてしまう即効力がある。このあたりは難病ものを得意とする韓国映画ならではだ。
M・ウィンターボトムいわく、ペルージャ英国人女子留学生殺害事件という〝悲劇を敬意ある眼差しで見つめる〟映画とのこと。だが、オッサンの夢を具現した映画にしか思えなかった。旅情に満ちた伊シエナをぶらつき、K・ベッキンセイルとまぐわい、事件の渦中に巻き込まれるわけではないがそこそこサスペンスな雰囲気に包まれ、女子大生とまったりする。なんだか、そんな主人公を〝映画監督島耕作〟と呼びたくなったまま観終えた。C・デルヴィーニュの後光が差した可愛さに感服。
テッドというテディベア、やることなすこと全てが下品で、エロで、お馬鹿なところが、なかなか面白かったが、パート2は前作を凌ぐ完成度だ。テッドは人間かモノかという裁判をテーマにしたシナリオもいいし、テッドの演技(?)も一段と向上し、パロディ、ギャグも前作より強烈、きまっている。相変らず、葉っぱを吸いながら、ダーティな科白を吐きちらし存在感は健在。『MAD』や『ナショナル・ランプーン』誌風の辛口ユーモアに熱心なファンがつくのも納得。
プロのバレエダンサーを目指し練習に取組んでいる十代の三人の少年、練習はハードで、競争は厳しいが、彼らをサポートする環境は家庭や学校、友人達を始め皆が好意的なので、温かく爽やかな印象を受け、声援を贈りたくなる。子どもから大人へと変化して行く少年達の肉体と精神が舐めるように描写される。ボーイズもののファンの女性にはたまらないだろう。ただ、何となく食い足りないのも事実で、これを序章として、彼らの五年先、十年先を是非観てみたいと痛切に思った。
難病もので泣かされるのがいやであまり観ないのだが、コッポラの「ジャック」(早老症)とボグダノヴィッチの「マスク」(ライオン病)には感銘を受けた。人間の尊厳が描かれ、ユーモアもあった。この映画も、極力泣かせの難病ものにするまいという監督の意思がうかがえて好感を持った。映像的にも美しく、ベタなリアリズムを避けることにより、ある種のファンタジックな世界を創り出すことに成功しているが、過酷な宿命に立ち向う人間が与えるより深い感銘には至らない。
裁判を正面から描かず、事件の映画化に取組む監督を主人公にしたメタシネマ的構成だが、その監督に魅力がなく、作家性も極めて薄弱。ダンテ『新曲』の構成を借りて殺された少女を主人公とした愛の物語にするというアイディアにたどり着くまでの迷走と妄想が延々と描かれる。曖昧で緊張感がない自己満足の映画になっている。マイケル・ウィンターボトムは多才な監督で、「キラー・インサイド・ミー」はジム・トンプソンの小説を見事に映像化しているので期待したが、今回は失望。