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この巧みなラブストーリーを見ると、原作者が女性に人気のベストセラー作家だと納得できる。主演男優は「X-メン」の映画で私の好きなサイクロプスを演じているが、目を隠している役なので表情演技がしにくく損をしていると私は同情していた。でもこの映画の見事な演技で安心。いい役者なのだ。彼が銃弾を受ける場面で倒れたその姿をやや長く見せるので、なるほどなと思ったら予想どおりだった。映画冒頭の海上の石油発掘タワーにも郵便受けがあったのには、ちょっと感心した。
映画を見ながら既視感があった。チェコには写真によるコミックスを手がけて人気のフランチェスカ・スカーラという人がいて、森のなかに自分で作った人形などふしぎなキャラクターを配して撮影し、コマ割りマンガを生みだしてきた。彼が07年に来日したとき私はインタビューしその本の全ページをコピーさせてもらった。この映画の終りにスカーラへの監督の謝辞が記されていて、やっぱりなと思った。チェコ人は森のキノコ狩りが好きなのだ。この種のチェコ人形映画も進化しつつある。
イタリアの女性監督によるすばらしい映画。ほとんどなにも劇的なことは起きていないようなゆるやかな時間と空間のなかで描かれる養蜂業一家の姿には、あらゆることが起きていると言えて、自然の風景を含む全体に、ある悲しさが漂っている気配に泣きたくなってくる。口笛のうまいふしぎな少年や、笑顔のすてきな女神のようなTV番組の司会者の女優。いつも威張っている父親は、彼女の前ではうまくしゃべれない。「家には何か秘密を隠しておくべきよ」という女性のセリフも忘れ難い。
悩みをかかえた知的な中年女性が、ニューヨークでインド人のタクシー運転手に車の運転を習おうとする。一九七八年に私が初めてニューデリーを訪れたとき、ターバンを巻いた車の運転手は「シーク教徒は必ずナイフを持っているんだ」と私に説明してくれたが、今は違うようだ。映画のシーク教徒はナイフを持たない。彼にはインドから花嫁が来るが互いに初対面なのでカルチュア・ショックもある。すぐなにかから物語が生まれるニューヨークの人間模様が巧みに織りこまれ、気持ちがなごむ。
〝運命〟を織り上げていくニコラス・スパークスの原作を、ベタベタになりすぎない、落ち着いたタッチで映画化。主人公の男女が大人になった現在と、高校の頃の2つの時代が舞台なのだが、ジェームズ・マースデンの若き日を演じるルーク・ブレイシーが、マースデンにまったく似ておらず、その大胆な配役に驚く。物語の整合性以上に、新星ブレイシー(ワイルド&セクシー系)を紹介したかったということか。そんな混乱はありつつも、全体の描写は丁寧でロマンティックな気分に浸れた。
チェコ産「トイ・ストーリー」ともいえる、ぬいぐるみのクーキーを主人公にした本作は、操り人形を軸にしたアナログな手触り。シンプルだけど、果てしない想像力と優しさに包まれた世界観は、童心をじわじわ呼び戻してくれる。多くを森の中で撮影したとのことで、その地道な作業に感服すると同時に、自然のディテイルを背景にした映像の美しさに息を呑む。途中までまどろっこしく思えた展開も、いつしかクーキーと一緒に冒険しているようなワクワクしたものに。心洗われる良作だ。
製作時、弱冠32歳。イタリアの新進女性監督アリーチェ・ロルヴァケルの長篇2作目。人里離れた土地で、養蜂を営みながら、自然との共存をめざして暮らすある一家の物語。頑固な父、母、小さな娘たち。ドキュメンタリーのような趣も交えて、自給自足の家族の日常を、主に長女の視点から柔らかくユーモラスに描いていくフェミニンな筆致に魅了される。伝統と時代の移り変わりを、この年齢にしてテーマとして深く掘り下げ、みずみずしくも豊かに表現できる才能は、末恐ろしいほどだ。
ニューヨークで書評家として成功した熟年女性が、夫の浮気で離婚。人生の指標を失い苦しむ中、ひょんなことからインド人の男性に車の運転のレッスンを受け始め、自分自身と改めて向き合う。演技派パトリシア・クラークソンのチャーミングで知的な魅力が全開。この主人公は彼女が演じることで、リアルな素敵度が上がっていると思う。脚本も演出も洒落ていて、試写室では、紳士淑女からクスクス笑いが起こっていました。大人の男女のしあわせの秘訣は、距離感のセンスかもしれません。
ニコラス・スパークスはラブストーリー界のスティーヴン・キングみたいになりつつあるな、という感想はさておくとして、これはどえらい珍品である。ジェームズ・マースデンとその青年時代を演じる俳優、そもそも顔の系統が違う。要領をえない回想場面がだらだらつづくかと思えば、そんなアホな! という中盤以降の超展開に失笑につぐ失笑。運命のなすところならば人がいくら死のうがかまわない、という思想ないし物語の作法がここには横たわっている。まったくおそろしい。
「へなちょこ」という語元のよくわからない日本語があまりによく似合うテディベアがチェコにいた! この何ともなさけない感じ、愛しやすい。マリオネットとミニチュアと実写とVFXのあわせわざがみごとで、クーキーと犬、および鳥(ともに実物)との会話、森を駆け抜けるカーチェイスの大活劇がたのしい。捨てられたクーキーは病身の少年自身だから、ひとつひとつの冒険が胸にせまる。息子が大きくなったら見せてやりたい、と思ったけど、もとより評者には妻も子どももいないのだった。
「ミツバチのささやき」のアナが幼年期の終わりとともにあったとするなら、この映画のジェルソミーナは、過ぎゆく夏とともに少女期の終わりをむかえている。仕事に厳しい父とすべてを包むような母、すばしこい妹たち。ふいにあらわれた少年とふしぎの国。あらゆる夏が少女をつかまえては、はかなく消えてゆく。ひとつの文化の終わりを描きえたこの映画の繊細きわまる膂力に、驚きと深いため息を禁じえない。結末に重層する時間は、まるで彼らがつくる黄金色の蜂蜜のように濃密である。
インド人はターバンを巻いているイメージがあるけれど、あれはシク教徒だけで、インド国内でもかなり少数である。そこがちゃんと説明されていてほっとしたけど、設定がふわっとしている印象。ベン・キングズレーもパトリシア・クラークソンも良いんだけど、原作のエッセイにあったはずの地に足の着いた生活感を感じられない。イサベル・コイシェにはもういちどスペインで映画を撮ってほしい気もちがする。それにしても米国では、教習生がいきなり公道でアクセルを踏むのね。