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体当たりとはこのことを言うのだと思った。絶対面白い映画にしてやろうというジュリアン・ムーアの意地が見える。ジュリアン・ムーアが踊りまくり、泣きまくり、笑いまくり、怒りまくる。セックスが始まる前に、彼のコルセットをバリバリ剥がすのが面白かった。おっさんおばさんの恋ならではのエピソードがてんこ盛りだ。後半、ジュリアン・ムーアが暴走する。そのキレっぷりも可愛くて、笑ってしまった。ジュリアン・ムーアすごいよ。えらいよ。意地見せたよ。
主人公が再会した友人を思い切り殴りつけるシーンに驚いた。探す動機が怒りだったと、ここで知る。勝手に消えた友人を35年も探し続ける男。男と男の友情は、恋愛に似ている。少年の頃に出会った天才と仲良くなりつつ嫉妬もあるって感じがよく出ている。まさに恋愛。奇行に付き合わされ、文句を言いながら、それでも楽しくなってくるあの感じ。ヴァイオリンの演奏が、天才っていうだけあってすごいと思った。少年の彼、本物のヴァイオリニストだったのね。納得。
冒頭から何が始まるのか、不安でいっぱいだった。何も起きない、カットが変わらない。どうしたんだと思っていたら、いきなり凄いことが起きてる。動物をあんなに近くで撮って、なんであそこまで自然体なのか? CGかと思ってしまった。ブタ、鳥、牛って、全部人間が食料にしてるんだよなと思い当たる。家畜を人間みたいに撮る映画。感情があるように撮れてるのが、本当に不思議だった。ラストの母ブタ、ウロウロの長回しに涙する。ブタが意外と子煩悩なのを知った。
とにかくいい人しか出てこない。めんどくさい兄ふたりに、めちゃくちゃ可愛がられてる妹。みんな生きるのがヘタな人たち。優しさが裏返って、相手を傷つけてしまう。ユーモアに包んだ繊細な描写が、心地いい。見落としてしまいそうな小さな出来事を丁寧にすくい取る。兄ふたりの仲の悪さに笑ってしまう。兄弟ってそうだよなと思い出した。仲は悪いけど、どこかに愛情がある。妹に彼氏ができたときの、彼らの反応が良かった。即座に否定してしまうのは、愛情ゆえだよね。
素直に告白してしまえばリメイクでない元の作品の方が好きだった。ジュリアン・ムーアが主演になったのだけど、ただただ彼女の“演技のスゴさ”を見せられているように感じてしまう。セバスティアン・レリオ監督の「ナチュラルウーマン」も「ロニートとエスティ」も確かに映画表現における新しい女性の描き方を模索していた思う。だけど現代において「自立して恋に奮闘して男に媚びない私」は正直古くさい。気になる監督だけに恐れずに新作を作っていって欲しい。次回作に期待。
ヴァイオリンの音が身体の中に入り込んでくるような不思議な感覚に陥った。その音はただ美しいだけではなく、重くのしかかる苦しみも伴っている。コンサートの日に失踪した天才ヴァイオリニスト・ドルヴィルと彼を探すマーティンの物語は、謎解きのミステリーとしての面白さもある一方で、一筋縄ではいかない家族への愛情と友愛の物語なのだと受け取った。この、なんとも表現しがたい感情をどう映像で見せるか。緊張感溢れる挑戦的な作品だ。音と映像のバランスで魅了してくる。
潔くて美しくてもの悲しい。それにしてもどうしてこの映画はこんなに面白いのか考えていた。母豚グンダとその小さな生まれたばかりの子豚たち、片足のニワトリ、顔に虫がたくさんついた牛たちの“顔”を撮っているからかもしれない。顔に人生が刻まれるのは何も人間だけではない。じっと顔がこちらを見ている。何度もドキッとさせられる。モノクロの世界に自然界の音が響く。映像だけでなく音の編集も非常に凝っている。凝っているけどシンプル。このシンプルさに見習うことは多い。
男女のすれ違いをユーモアたっぷりに描くのを得意とするいかにもフランス的家族ドラマは、どうしてもどこかで見たことあるような感じなのが否めない。が、やはり私はいかにもなフランスっぽいフランス映画が好きなのである。ちょっと困った二人の兄の妹ローラ役を演じたリュディヴィーヌ・サニエはオゾン映画で「焼け石に水」「8人の女たち」での少女役が印象的だった。いつの間にか大人になっていて親戚にでもなったかのような妙な感慨がある。やっぱり笑顔がとびぬけて可愛い。
2013年製作の「グロリアの青春」のセルフリメイク。しかも、誰が見てもほとんど同じといいたくなるほどそっくりではあるが、まったく同じというわけでもなく、そのあたりのさじ加減に若干の戸惑いを覚える。ジュリアン・ムーアがやはりゴージャスすぎなので、主人公の人物像は全然別ものに見えるのだが。ちなみにアーノルドが朗読する詩(前作と同じ)が気になり調べてみると、クラウディオ・ベルトーニというチリの詩人の作。「僕は巣になりたい、もし君が鳥なら」と始まる。
トレブリンカで死んだ者たちを忘れないように、みなで名前を口ずさみ続けて生まれたという“名前たちの歌”というアイデアがあまりに強烈であり、この映画も結局はそこに尽きる。ただ、これは他の映画を見ていてもたまに思うことだが、他にクライマックスの作り方はないものか。最後のコンサートの場面で、シナゴーグで初めて聴いた〈名前たちの歌〉から病棟やトレブリンカでの演奏までが映像で順に挿入される。これだと、「あー、はいはい」ってなるだけではないかな、と。
豚に続いて映される鶏を見て、ふと若冲のことが念頭をよぎった。時代も国も美学も感性も無視したありえない連想であり、この母豚のポートレートを《動植綵絵》の1幅に加えたくなるなどとはいうまい。だがカメラによる描写は細密であり、細密であるがゆえに幻想の世界へとつらなり、動物がその環境と組み合わされる。基本的には豚でも子豚でも鶏でも牛でも、撮影対象の視線の高さにカメラを据える、その描写の方針がいい。前作「アクアレラ」の反省からか、音楽を排して正解だろう。
あるメカニズムを構築し、その働きを探ることがコメディの醍醐味の一つであるとすれば、ジャン゠ポール・ルーヴに欠けているのはそういうコメディであることの自意識である。たとえばエマニュエル・ムレあたりと比べれば、その点は明らかだと思う。ここでは全体の作劇のあり方にせよ、それぞれの逸話や人物の役割にせよ、またそういう一切を成り立たせる数々の要素にせよ、すべてが観客に決まった効果を与えるべく配置されているだけで、それ以上でも以下でもないわけである。