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エクソシズム(悪魔祓い)映画のヴァリエーション。明らかに監督が「エクソシスト」ファン。ただし本来ならば「祓う」役割の聖職者のあり方がポイント。要するに無力。で、そこが一番の面白さ。日本では〽いつくしみ深き…の歌詞で知られる讃美歌312番を口ずさむ母親の存在に注目したい。彼女を含めて主人公一家は無神論者なのである。当然何らかの棄教体験があったはずだが、そこが描かれないのが残念至極。このキッチンの場面は映画「樹海村」をヒントにしているのではないかな。
この一件はTVドキュメンタリーで見て知っていたがさらに面目一新した面白さ。見たら誰もがあっけにとられる。ネタバレじゃないから書いてしまうと、何でもない数十万円程度の絵が510億円に化ける、そのカラクリを暴き出す。有名なオークション会社サザビーズとクリスティーズの社風の違いも分かって有意義かも。誠実な美術史家が最初下した鑑定には「ダ・ヴィンチ工房の作」とする見解も暗に含意されているのだが、そこが意図的に抹消され、こういうことになったと分かった。
巧妙なミスディレクションの連鎖が圧倒的。当初の思い込み(登場人物の、また観客の)が次々と裏切られていく叙述スタイルに妙味あり。ただし意外と★は伸びない。ユーモアがない「ハリーの災難」とでもいうか、人物みんな思考パターンが硬直しており、脚本家がそこをあざ笑っている。あるいは、ヘンな言い方だが脚本家につけ込まれるような行動をキャラが取っているような印象。例えば、いくら気が動転しているからといって、あんなずさんな死体遺棄をするだろうか。納得いかないな。
万国の万引き犯諸君、団結せよという物騒なタイトル。ではあるが、爽やかな青春映画で驚いた。ラジオ局ジャックの実話が基になってはいるが事実とは大きく変えてある。むしろ「アメリカン・グラフィティ」が発想源だろう。公式的な主人公と彼のガールフレンドよりも、懐深いDJの好演で★を足した。これって〈メタル・グルー〉のパクリだろ。などというあまりにマニアックな台詞に痺れる。実在のグループ、リーダーのインタビューもたっぷりでファンならずとも貴重な映像の数々。
親という存在の「死」は多くの人が経験するものでありながら、我々にとってそれは不可解で未知数で実のところ何もわかっていないのではないかという問いが始発駅になっている点で、おそらく直近の「レリックー遺物ー」と共通しているが、終着駅がまったく異なっているように思われる。とくに「ロスト・ハイウェイ」などのデイヴィッド・リンチ的な要素もありつつ、身体的な痛さや不安を煽る演出など、とにかく観客を恐怖に陥れるために全力を尽くすあたりはホラー映画の鑑と言える。
レオナルド・ダ・ヴィンチが実際に描いたかどうかも判然とせぬまま、絵画「サルヴァトール・ムンディ」を巡って美術界の裏側が明かされていくドキュメンタリー映画だが、予め答えのない作品であることがわかっていてもなお、単調な構成と演出のためか、ミステリーの快楽よりも虚空を摑むようなモヤモヤ感が強く残ってしまう。親指が二本描かれているなど芸術品が実証的に検証されていく要素には興味をそそられたが、一方で人間同士の醜い利害関係が絡む要素には辟易するばかりだった。
山羊を背中に乗せて自転車を滑走する少年の動的なショットから山羊の瞳の接写のショットへ移行するオープニングシークェンスが素晴らしい。宣伝上で謳われている5人の主要人物をめぐる「羅生門形式」は一つの出来事の解釈の相違を示すためではなく、一つの真実に一歩ずつ近づいていくために選び取られた手法のように見える。イニャリトゥの「バベル」の傑作群像劇を最も想起させるが、注意深くいなければ容易に解決させてくれない謎が、一度に留まらない鑑賞への欲望を掻き立てる。
閉塞的な世界に生きる若者が大切なバンドを失ったことは世界の終わりに等しく、映画はその重大さを描こうとしているが、いかにも青春時代のありふれた混乱状態をそのまま映画にしたに過ぎなく、一つの作品としての整合性とまとまりが感じられない。冒頭から同性愛嫌悪が横溢する以上、登場する当事者のクィアな若者たちの描写をもう少しポジティヴに調整する必要もあったはずだろうが、やはりやっつけ感の強さが否めない。こういった趣向の既視感に満ちた青春映画は、もう食傷気味。
動物や植物など、人間の近くに存在しながらも粗雑に扱われてきたものたちの権利が主張される昨今、これはまさかの新ジャンル、酪農ホラーなのかという期待に胸躍らせたものの、残念ながらその真逆で、身近に存在するものたち(病人)を積極的に恐怖対象化=外部化していこうという昨今大ブームの介護疲れホラーでした。この流れ、非常に今っぽいっちゃあ今っぽいんだが、知性派のはずのシャマランあたりまでハマっていて、どうなのか。中年姉弟を主役にしていた点だけは新鮮。
取材対象がみなひとくせもふたくせもあり、サスペンス映画といっても差し支えないほどしっかりと練られた構成の上でユーモアたっぷりの映画的演出が冴える。ヨーロッパが時代を重ね築き上げた排他的で自己中心的な「芸術」なるものを、歴史を持たない虚構の帝国アメリカが例の紙片で買い叩き、根こそぎフェイクなジョークとしてしまったのが現代美術史だとするならば、そのスポンサーが有史以来反ヨーロッパとして唾棄されてきた中東やロシアだったというのは当然の話である。
ひとつひとつの出来事やサスペンスは極めてシンプルでさしたる驚きはない。しかし、三方向からでは到底把握できなくなった世界を多元的につかもうとする試みは興味深く、フランス映画ではおなじみの面々が見せる引き算の芝居が素晴らしい。本作の原題は「動物だけが」である。「人間だけが」もちいる例の紙片がフランスの山奥から遠く離れたコートジボワールのタコ部屋まで姿の見えない悪魔をはびこらせ、今日も暴力を連鎖させつづけている現実を見すえよということだろうか。
一聴するだけで涙腺がゆるむザ・スミスの神曲群の合間に、信じがたいほどスノッビーでいらぬ政治的配慮だけが行き届いたゴミのようなドラマがはさまっている。本作を見たモリッシーの本音を聞いてみたい。これならば90分のリリック・ビデオを作った方がザ・スミスの魅力を端的に表現できたのではないか。自称イケてる友人たちによる相互承認飲み会に徹夜で付き合わされたあとのような疲労とムカつきはしばらく消えそうにないが、ザ・スミスへの変わらぬ愛と支持ゆえに一点加点。