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アメリカン・ドリームは常に悪夢と表裏一体である。難民としてカンボジアから渡米し、アメリカを代表する食事の一つドーナツで夢を摑んでしまうテッド・ノイの数奇な半生そのものは非常に興味深く、「ツイン・ピークス」など多くの映像作品に彼らの商品が登場していたことがさりげなく明かされる抜粋箇所も楽しい。しかし、後進へと至る流れを重視したかったのだとしても、製作陣はギャンブルや女性問題で破綻へと至った彼の暗部ともう少しきちんと向き合う必要があったのでは。
息子と父の関係が動き出す山場以降の主演二人は掛け値なしに素晴らしく、なかでも喧嘩から翌朝への流れは、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」を彷彿とさせるモーテンセンによる自身の前髪への演出とも相まって鮮やかな静と動のコントラストを成しており白眉。それだけに、多様性の見本市のような息子や娘の家族のあり方が、対極に位置する父親の有害な男性性との衝突をより劇的に演出するための布石としてのみ要請された、わざとらしい設定に見えてしまう点が非常にもったいない。
知的好奇心によって結びついた世代も階級も異なる二人の師弟関係と友情関係は美しく、自負の強さを感じさせる昌大役のピョン・ヨハンの面構えも良い。また、どこか近年の学術会議の問題を想起させもする知識人と国家の関係は、単なる異国の時代劇としてではなく現代日本にも通じる物語として本作を今観る意義を示しているようにも思える。だが、書物をめぐる動きの少ない題材をあえて映画化するのであれば、単に絶景をモノクロで撮るだけではないさらなる工夫を凝らして欲しかった。
ダンスや女性に熱中した若き日の記憶について語る場面を比較的長く取り上げることが、ファインゴルトの人となりを伝えるとともに、その後の痛ましい体験との落差を際立たせている。随所に挿入されるホロコースト関連のアーカイヴ映像は資料性の高さと裏腹に目先を変える役割しか果たしていないようにも見える一方、同様に挿入される反ユダヤ主義者たちからファインゴルトへの近年のものを含む誹謗中傷の数々は、反ユダヤ主義が終わってなどいないことを端的に示す意味で効果的。
ポップでカラフルな装いに反して、ドーナツから見えてくるのは、移民の国アメリカの近現代史や難民問題といったシリアスな事柄であり、描かれるのはドーナツ自体というよりもドーナツで繋がるカンボジア人のコミュニティだ。しかし同時に、純粋にドーナツが食べたくなる食べ物ドキュメンタリーの絶対条件もきっちり抑え、このシリアスな重さとポップな軽さが独特なバランスで成り立っている。このバランスこそがドーナツキングことテッド・ノイという人物の一番の魅力だろう。
認知症が出始めた父は、男尊女卑で差別主義的な傾向をますます強めている。そんなもう老い先短い父の世話をしなければならない息子という親子の物語は、父の態度を許しがたく強烈に描くほど興味深いものになるが、同時に着地がとても難しくなる。映画は断絶も安易な和解も描きはせず、なにかしらの心の交流がなされて終わるが、そうした目に見えぬがどこか通ずる関係によって、一番の被害にあっているともいえる女たちの声と存在はあまりに微かなものとして扱われてしまう。
学はあるが頭でっかちな学者と、学はないが生きることの意味を体感している素朴な島の若者という構図かと思うと、実際にはそう単純ではなく、学があるゆえに生きることの意味を探求し、素朴ゆえに教条的な学を求める両者のすれ違いが面白い。しかし、では学ある学者が“正しさ”を体現しているのかいうと、時代が時代のため仕方がないが、父権的な振る舞いが滲み出ていたりする。話の結末に驚きはないが、肝である二人の間に流れた時間の厚みも最後にしっとり感じさせて悪くない。
ホロコースト生存者、マルコ・ファインゴルトの証言に、ときおりニュース映像と反ユダヤ主義的な誹謗中傷の手紙が引用される。ホロコーストにまつわる記憶と当時の映像、そして今もまだ続く反ユダヤ主義という三つの要素は極めてシンプルな構成にもかかわらず、過去と現在とその狭間の時間軸を作り出している。ただし本来いるはずのインタビュアーの存在は消え、あまりにも饒舌で明晰に語るファインゴルトの姿に、編集の巧みさが良い意味でも悪い意味でも気になってしまう。
中国系アメリカ人の新鋭、アリス・グーが映し出す、“ドーナツキング”の半生。成功の階段を一気に駆け抜ける彼の姿とカンボジアを襲った歴史の悲痛が、ポップなイラストや音楽を織り交ぜ、小気味よく、緩急たっぷりに綴られてゆく。70年代ゆえのアメリカンドリームに陶酔しつつ、中盤以降には『杜子春』的教訓も。魅惑と背徳を併せ持つドーナツという甘い毒が象徴する、ぎゅっと凝縮された社会の、人間の、悲喜こもごも。先を見据える次世代の飛躍に、回顧に終わらぬ光が見える。
ヴィゴ・モーテンセン初監督作は、半自伝だという“困った父”と、その息子の物語。母の死を契機に脚本を書き、主演し、自ら演出にまで挑んだ本気と、さらに父でも自身でもない中空に視点を据えて、登場人物すべてを静かに見つめる立ち位置の揺るぎなさに感服。それは綺麗事じゃなく、一度どんつきを知った人にしか至れぬ境地のように思えた。風のそよぎ、花、寄せては返す波、眩い日の光――愛憎を超え、「生」の瞬間を一つ一つ撫でるように慈しむ掌の温度が、余韻となって長く残った。
イ・ジュニク×ソル・ギョング。「ソウォン/願い」はあまりに辛い話だったが、水墨画を思わせる今作は、一陣の清涼な風を感じる物語に。特に、若銓と昌大が知的好奇心をぶつけ合い心寄せ合う過程が爽快だ。時に滑稽な顔を見せるソル・ギョングのしなやかさはもちろん、若き漁夫を演じるピョン・ヨハンの存在感にも目を引かれた。貧しい暮らしの豊かさと、権力を手にした人間の陥る闇。情を以てどの国の、どの世にも通じる普遍のドラマに仕上げる力は、さすがイ・ジュニク。盤石なり。
シリーズ第一弾「ゲッベルスと私」同様、余分な演出を排除した極めてストイックな映画だ。軸となるのは、撮影当時103歳だった、マルコ・ファインゴルト氏の独白のみ。オーストリアにおける反ユダヤ主義の根深さについて訴え続けてきた彼は、長い歳月を経てもなお、当時を振り返り怒りを滲ませる。途中挟まれる貴重なアーカイブ映像も多くは無音で、観客をいたずらに煽動しないよう細心の注意が払われているが、正直、もう少しだけ人間としての氏の素顔が覗く言葉を聞きたかった。