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仲村トオルにとって杉野希妃は自殺した妻から解放してくれる救いなのか。それとも自分が救いたいと思ったのか。観念としては分かるが、具体が分からない。子供と会わないでと言う女、僕なら一発アウトだけど。次第に男も壊れていることが分かるが、そこにすべての理由を求める作劇はダメだと思う。嘘で男を支配する女は冒頭のモラハラ男に支配されるだろうか。こういう不用意な歪さを過剰かつ善意に解釈して評価する人がいるけど、それは映画や作り手にとって幸せなことだろうか。
リム・カーワイのスゴさは国境も映画も軽々と(ではないかもしれないが)越えていくことではなかろうか。本作はリムのある到達点だと思う。全篇から漂う映画としか形容しようのない香り。人も街もリムの手にかかると実に様々な顔を見せる。どの国の人も同じように抱えるよるべなさ。物語の着地点として未消化なところも多いが、それすらも現実ってそうだよな、なんでもかんでも解決しないよなと思わせる力がある。短所も長所に。リムがこんな映画を撮るなんて。悔しい。負けたくない。
昔書いた脚本を「これはドラマではなくスケッチ」とプロデューサーに一蹴されたことがある。本作にはそう言ってくれる人はいなかったのか。薄っぺらな女たちとさらに薄っぺらな男たち。いつかどこかで見たような人物とエピソードのコラージュ。いくら孤独だからって、あんな男と結婚しないでしょ。話を進めるため、最後に啖呵を切らせるためのバカな選択。他の人物然り。この程度で刺さる人がいるのか。「あのこは貴族」はオジサンにも刺さったけど。消費される監督にならないで。
脚本が酷い映画ばかりで本当にイヤになる。異母兄弟の話で弟主役なのに、その弟が分からない。だから弟の話になっていない。子供の頃、音楽をやめた弟は芸大の美術科に入り、兄と再会。そこで見事にピアノを弾くが、ずっとやっていたのか。回想は点にとどまり線にならず、ドラマ以前の登場人物の生き方が見えない。ディテールに神は宿る。脚本は論理。その二つが雑だとすべてが台無し。役者に努力させてピアノのシーンをちゃんと撮る前に、脚本にこそ頭を使って努力してほしかった。
がらんとしたコンクリート打ちっぱなしの診察室に万田邦敏の世界を感じる。余計なものは何も映っていない。あるのは虚言と幻聴、そして愛憎の渦。平気で嘘をつき、独占欲を募らせ、嫉妬に燃え、目的のために手段を選ばない。そんなアンバランスな女性患者の情念が、孤独な精神科医の心をのみ込み、狂わせていく。愛の実体はなく、すべては妄想。そんな人間の感情だけを見せるという実験を冷たいコンクリートの箱の中でやってみせた万田の若々しさに感服。杉野希妃は最高のはまり役。
大阪・梅田を舞台に10カ国・地域のアジア人たちが交錯する群像劇。当り前のことだが、一昔前の豊かな日本と貧しいアジア、おごれる日本と可哀想なアジアという図式から見事に脱している。裕福な中国人がいれば、貧しい日本人もいる。上品なマレーシア人もいれば、助平な奴はどこにでもいる。そんなアジア人が断絶したり、つながったり。一人一人が複雑な事情と葛藤を抱えた人間で、そいつらが行き交う混沌とした街としての大阪の魅力が浮かぶ。映画漂流者リム・カーワイの面目躍如。
ろくでもない男しかでてこないのだが、そんな男たちとずるずるつきあっている女たちを見ているのもつらい。36歳の売れっ子女性ライターの揺れる気持ちに寄り添ったということなのだろうが、ここまでふらふらと周囲に流され、意志が弱いということに、逆にリアリティーがない。SNSとセレブな東京のイメージの中に浮遊している女たちということなのだろうが、ここまでヤワではないんじゃないか? 登場人物一人一人の芯の弱さが、葛藤の弱さとなり、映画の弱さとなっている。
嫡子と庶子の確執というコテコテのメロドラマでありながら、好感をもったのは京都の風景が生き生きしていたから。絵はがき的な景色を切り取るのでなく、あの街の独特の音に耳を澄ましている。賀茂川のせせらぎや、東山の風など、風景と結びついた音が重要なモチーフとなっている。芸術をテーマにすることも、大学を舞台にすることも、この街なら無理なくできる。物語の上だけでなく、人材やロケ地など制作の上でもそうだろう。今日的な京都発の娯楽映画の可能性を感じさせる。
万田邦敏監督の作品は、愛の定義を根本から揺るがす。育む経緯を敢えて端折り、愛のみの在りようを問う。医師と患者の俗に言う禁断の愛も、拍子抜けするほど簡単に成就させ、ドラマが本格的に動く。それなりに歴史を刻んだ医師と亡き妻の愛と天秤にかけられる勝算の薄い勝負に、捨て身で挑む患者のひとり相撲の切なさのようなものが、結末まで見届けた後、不意に時間差で押し寄せる。彼女を筆頭に、心を委ねづらい曲者揃いの、身の置き場に困る劇空間も、好みの分かれどころか。
リム・カーワイ監督の“ホーム”かつ“アウェイ”でもある大阪に対する、独特の感覚や絶妙な距離感が光る。夢の実現を焦る移民が道を踏み外していく過酷なリアルから、大阪慣れしたAVオタクの台湾人(リー・カンション!)と渋々ひとり観光を強いられた中国人が、超大衆居酒屋で意気投合するファンタジーまで、同じ空気感の中で自然と成立させてしまう繁華街・キタ。アジアの一角に陣取る、コテコテもセカセカもしていない懐の深い大阪像を、再発見させてくれる佳篇。
かつて自立した女性を賛美するベストセラーを放つも、以降は代表作を書けないヒロイン。彼女の苦難の十年間が窺い知れず、ここにきての転向が、アラフォーという設定のみに直結した皮相なものに映るため、明白な選択ミスを経た復活劇にも、何か実感が伴わない。一発屋、おひとりさま、パパ活女子など、やたらと括りたがる世間からの解放を志す女性たちの物語のはずが、“ずっと”の解釈は緩めに、孤独をマイナスに捉える一面的な認識が見え隠れするのも気になった。
「トウキョウソナタ」の少年の将来像のような井之脇海が、桜満開の賀茂川沿いに佇むピアノを揚々と弾く。“未聴感”を表現する高いハードルを、嫌でも目を引くシチュエーションの助けも借りてクリアする軽快な序盤から、死後も残る新しい音楽を追究する異母兄弟がぶつかる、生みの苦しみに主眼が移る。それゆえ、努力家の兄との確執の末に天才肌の弟が紡ぐ楽曲こそハイライトかと期待が高まるも、サクッとはぐらかされた上、畑違いのMV風に転じる終幕には、疑問符が浮かぶ。