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はらはらさせてくれるから是非見てほしい。だが物語の整合性が弱く、星は伸びない。色々な趣向を盛り込みたかったのか、トラックをわざわざ3台にしてかえって不合理なことに。車全部を壊さない限り意味がないのに、悪玉がそれに全く気づいていない。途中で企画に変更を加えたのかも。また犯行動機とその手口がどう考えても不条理である。いっそシンプルな落盤事故にした方が楽しめたはずだ。そして勘のいいひとなら悪玉は現れた瞬間に分かる。犯人探しじゃないから許してあげたい。
韓国における脱北者の実態について考えたことがなかった。差別がまかり通っているようだ。それにしても偶然からプロボクサーを目指すことになる主人公の無愛想ぶりが凄い。興福寺阿修羅像に通ずる宗教的な眉根の寄せ具合。シャープな身のこなしを褒められて、しかし意固地になり「北と見たら何でも特殊部隊か」という捨て台詞が実にいい。深刻な場面なのに笑ってしまう。つまり愛想がないのが彼女の取り得である。そして本当は強いのに、物語ではしょっちゅう負けるのが効いている。
典型的なマッド・サイエンティスト映画の始まり方だが上手いこと裏切られる。監督が監督だから「死霊館」的展開かと思うとそれも裏切られ、この企画は様々なジャンル映画との戯れに眼目があると分かってくる。ネタバレ厳禁だが手塚治虫とブライアン・デ・パルマが狂喜するであろう映画。この程度は書いてもいいだろう。謎の怪人のぎくしゃくした動きが最大のポイントである。そして裏切られたと思っていた諸ジャンルに再帰する感覚も重要。形而上的ホラー映画の新境地と言えるな。
自らの社会的な性別に違和感を覚える所謂トランスジェンダーと呼ばれる人々は少なからず存在する。だが、この映画の新機軸は、彼女ら本人のその自覚はこれまで考えられてきたよりも時期的にずっと早いのではないか、という点への注視にある。自分を女の子として遇してもらいたい、という主人公と、その願いを学校という場で叶えようとする家族の奮闘を描く。学校側が頑なでなかなか上手くいかない展開だが、一方の当事者である教育関係者が取材拒否したのか、誰も現れない。
リーアム・ニーソンがPTSDを患ってしまった死する弟の頬を、極寒のなか手袋を外してそっと触れる瞬間だけは印象に残っているが、そんな繊細なエモーショナルさとは対比的に、ツルツルした氷上で人間たちが繰り広げるアクションはいわば滑稽さのようなものと紙一重でもあり、純粋なスリル感に没入しがたい。のちに明らかとなる黒幕の表層的な人物造形と彼らの陰謀も陳腐であり、映像面とプロット面の両軸で決して上出来とは言えない作品に仕上がってしまっているのではないか。
「北朝鮮の人間はいつも映画で血も涙もない人のように扱われています」とイム・ソンミ演ずる主人公の女性が、劇中で毅然と言い放つ。5年前にドキュメンタリー映画(「マダム・ベー ある脱北ブローカーの告白」)で北朝鮮の女性を描いたこともあるこの監督は、動機がこの一言に凝縮されているかのごとく、イム・ソンミの顔貌から滲み出る人間の情動へ執拗に迫り続ける。寡黙な館長の存在感にも胸打たれ、今年公開された韓国映画「野球少女」と共に優れた師弟映画として並べられる。
ジェームズ・ワン自身はダリオ・アルジェントやブライアン・デ・パルマの名を挙げているが、描かれているテーマでいえばジョージ・A・ロメロなどを最も強く想起させる。序盤あたりで正体不明の殺人鬼から逃げまどう主人公の女性の視点がふいに離れ、殺人鬼のPOVに移行するカメラはその後の展開をも示唆しており、驚きがある。古典的なホラー映画の様相を呈していた前半から、アクション映画さながらの後半への転調は観客を飽きさせないが、物語の核部分は厳重に隠すほどではない。
リフシッツの審美的な映像はトランスの少女サシャの置かれた苦境にすぐさま観客を共感と同情を持っていざなっていく。多くの者はサシャのような子供を拒絶する学校側を敵対視し、不寛容な社会を悪とし、無知な自己を内省するかもしれない。しかしこの映画の果たすそんな功績の全てが、まだ成人に満たない性的少数者のサシャが映画の名のもとで未知数のリスクに曝されて初めて成り立つ事実を決して軽んじるべきではないだろう。寧ろここでは観客側の受容の態度こそが問われている。
リーアム・ニーソンがなんだか走ってなんだかジークンドーっぽい技を用いてなんだか事件を解決する近年のシリーズは意外と侮れない力作揃いなので本作にも期待していたところ、事件のきっかけになる場面のCGが初代プレイステーション並みのクオリティーで椅子から転がり落ちそうになった。それでも、クルーゾーやフリードキンに憧れた映画オタクによる、映画作りを楽しみながらも願わくはお客さんも楽しませたいプログラム・ピクチャーなのだと思って観続けたら、若干ほっこり。
もはやひとつのジャンルになりつつある手持ちカメラによるボクシング映画。ただ、ボクササイズレベルの技量しか持たないライバルとのしのぎあいには当然ながら何の緊張感もない。では主人公が真に打ち倒したい相手とは、脱北者である己と家族の過去なのか。しかしこちらも凡庸で有り体な描写が積み重ねられるだけで、脱北者ならではの具体や人生が垣間見える瞬間はほとんどない。演出全般のつたなさを俳優の顔の良さで補おうとする演出家の戦略だけはある程度うまくいっている。
ヨーロッパのジャッロ映画をクラシック音楽だとすると、本作はオーストラリアのメタルバンドにカバーされてしまったクラシック音楽のようないたたまれなさがあり、恐らく続篇の制作は絶望的であろう。だが、まるで課金ゲームのCMのような安くてのっぺりとした画調と三文役者たちの限度を知らない芝居合戦、そして間が持たなくなると流れはじめる下品なインダストリアル・ノイズがある瞬間共鳴し、まったく新しい体感型ホラー・オペラを現前させている点は評価するべきだ。
まるでコマーシャルのような美しく決まった映像にさまざまな扇情的な音楽が重なり、トランス・アイデンティティを持つ7歳児サシャが現在の世界で生きることの困難と救済についてサシャの母カリーヌが語り尽くす。わたしたちがいつの間にか与えられる性別や名前、国籍といった烙印に一度も違和感を抱いたことがない方は是非とも本作を見てその暴力性についてご一考いただきたい。そう、あなたはあくまであなたであって、男でも女でも田中でも山田でもなに人でもないはずだ。