パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
子どもは無力だ。大人の都合や暴力を受け入れるしかない。15歳の女の子が酔っ払ったお父さんに髪の毛を切られるシーンは心が痛んだ。追い詰められた子どもたちは、ようやく大人に反撃する。三人の逃避行。のびのび遊びまくる彼らの潑剌とした表情。ずっと不機嫌だった女の子が、どんどん解放され可愛くなっていく。モノクロの映像の中に、時々カラーの幻想的な映像が現れる。その夢のような美しさに息を飲む。美しく残酷な、思春期のあのときにしかない輝きがそこにある。
拷問のシーンが凄まじい。あんなの絶対おかしくなっちゃうよと思った。彼は耐え続けた。よく生きていたと思う。どんなときもユーモアを忘れない彼のキャラクターがいい。実話ベースだからなのか、派手な展開はない。検察も弁護する側も、地道な努力を繰り返す。山と積まれた黒塗りの資料を読む徒労感が伝わってくる。権力を持っている側が、いかにひどいことをやりかねないか。見ていて怖くなった。彼を弁護するジョディ・フォスターがかっこ良くて、シビれた。さすがです。
人形の生々しさにギョッとする。特殊造形の力が大きいと思うが、ピノッキオが本当に生きているようだった。巨大な魚のお腹の中にいくところ、子どもの頃行ってみたいという憧れがあったのを思い出した。ピノッキオが妖精とか色んな人たちと出会って、助けられて成長していくって話だと思うのだが、成長が見えないっていうか、そもそも彼は何がしたいのか。人形でいることの不幸と人間になることの喜びが見えなかった。でも、もう一度ピノッキオを読み直してみようと思った。
ブラジルの高校生は元気だ。学生運動に参加する若者の生の声が聞ける。殺伐としたデモの合間にキスする恋人たち。若いっていいなと単純に思う。出てくる女の子たちが、みんな元気で可愛い。大人たちはみんなずるくて汚くて、精彩がない。政治って難しくないんだ。ただ理不尽なことに声をあげるってことなんだ。声をあげることが大切なことだとつくづく思う。結局大人の力に負けていくところ、悔しくて仕方なかった。頑張れと応援したくなる。俺もなんか頑張ろう。
ずっと探し求めていた映画と出会えた喜びをかみしめている。監督の実の子どもたちが主演なのだが、演技が本当に素晴らしい。ビリー役のラナ・ロックウェルの瞳が画面に映しだされる。それだけで何の説明もいらないくらいに、言葉にならなかった感情が表情から痛いほど伝わってきて、思わず涙ぐんだり微笑んだりしてしまう。“映画の力”というものをストレートに感じさせるエネルギーが炸裂している。ビリー・ホリデーの歌声も含め、身体中に余韻の残る傑作。人生の大切な1作。
不当な拷問により自白させられた事実、黒塗りにされた書類の山。9・11により一層、恐怖と憎しみが蔓延していくなか、疑いだけで長い間拘束されていた男の手記が原作となっている。日本での黒塗り文書のことも頭をよぎりつつ、原作の手記を映画化したいと望んだカンバーバッチの心意気に思わず拍手。人権弁護士ナンシー・ホランダーを演じたジョディ・フォスターのクールで知性溢れるまなざしと色気にも惚れ惚れする。暴力はいかなる未来も作らない。非常に見応えがあった。
衣裳や美術が美しい。物語の大筋はおそらく多くの人が知っているものだろうが、なんというか所々ディテールがもったいない。木の人形を息子だというジェペットさんに対して知人が「は?」という顔を向けるシーンがあるかと思うと、当たり前に人形が人間と会話し、妖精もいて、他の生き物が喋る世界。原作に忠実であろう各シーンも羅列の印象。大人向けダークファンタジーというには物足りない。オゾン映画でお馴染みのマリーヌ・ヴァクトが一際美しいので満足感はある。
マイクパフォーマンスのようなナレーションが心地よく、流れるようにあっという間に時間が過ぎていく。必要以上に説明的なナレーションにうんざりさせられることが多いなかで、この魂の叫びのナレーションは素晴らしい。ブラジルの高校生たちが闘い、自由を摑み取ろうとした記録映像をより一層意味のあるものに変えていて、それはこれがどこか遠い国の関係のない出来事だとは言わせない力強さを持つ。編集のエンタテインメント性も高く、始終作品に引き込まれていた。
一瞬の生のきらめきを捉えて、順に繋ぎ合わせる。それで十分なのだ。本作を見ていると、ショットをショットとして見ることができるかを試されているようだ。映画は物語や教訓に従属しない。画面の中には象徴があるのではない。ショットは機能に還元されず、叙述に回収されない。青い海に明日の空が映っているから、もう年をとることがないように。温かい愛があれば、コートも手袋もいらないように。雪が降り風が吹いても、つららの形を見るだけでいい。いまは一度しかないのだから。
ジョディ・フォスターかっこよすぎと思いつつ、映画としては厄介な代物。最後の本人登場がなければ、まったく別の映画として見れたが、ラストに本人映像を流す実話ものはすでに一つのフォーマット。それを踏襲するだけでは芸がない。「15時17分、パリ行き」(18)で、もう本人たちに演じてもらおうっていうのをイーストウッドがやっているのでなおさらだ。テーマ的にいっても、イーストウッドとの対決は不可避だったと思う。制作陣からすれば、知るかって話なんだろうけど。
お話を辿ることを目的にした映画なので、それ以上の関心を持ちようがない。劇中、カタツムリが物語を語り聞かせるのにピノッキオが退屈し、妖精と一緒に早送りをして楽しむ場面があったが、思わず真似したくなった。たとえ面白い話だとしても、それをただ聞かされるだけでは別に面白くもなんともないわけだ。なお特殊メイクを施してCGで均しているので、ピノッキオは表面以外は人間そのもので、人形感はゼロ。最後に人間になったといっても、見た目が多少変わる、ただそれだけ。
ここには怒りがあり喜びがあり、絶望があり希望があり、高揚があり、熱気がある。だが、大事なことはただひとつ。自分のことは自分で語るということだ。他人に語る筋合いはない。これは私だ、だからこれを語るのは私だ。これは君だ、だからこれを語るのは君だ。集団とは名を持つ個人の集まりだとこの映画はいう。声を吹き込み、映画の中心をなす3人、インタビューに応じた多くの学生、そして闘争のさなかでカメラを回し記録を残したカメラマンたち。最後に名が順に記される。