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現代のホラー映画において最も重要なのはナラティブの刷新であり、そのためには過去のホラー映画及びサスペンス映画の真摯な研究が不可欠なわけだが、本作における狭い空間でのショットの切り替えや、回想シーンに入るときの話者のギミック演出の目新しさには大いに興奮させられた。劇伴や効果音の使い方にも非凡なセンスがうかがえる。登場人物が全員大人のホラー映画というのも思えばなかなか貴重。フォーマットや尺の長短にかかわらず、この調子で作品を量産し続けてほしい。
テレビシリーズ『マスター・オブ・ゼロ』の傑作回「サンクスギビング」にも通じる「ゲイカップルにとっての実家問題」に真正面から誠実に取り組みつつ、レシピ映画や京都観光映画としての機能性も兼ね備えているという、何気に現在の国内娯楽映画のジャンルでは最もグローバルなランゲージで語られている作品かもしれない。ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』でも存分に発揮されていた中江和仁の堅実かつ洒脱な演出も、テレビドラマと映画の壁を軽やかに乗り越えている。
生徒数減少による経営困難で廃校となった良妻賢母が校訓の女子校、雑誌モデル、ギャルブランド、MDプレーヤーとMDディスクなどなど。この10年間に「失われたもの」をただ否定するのではなく、愛着を込めて弔うかのような監督自身による脚本が秀逸。同窓生3人だけの内輪の物語に閉じずに、中井友望演じる現役女子高生、工藤阿須加演じる広告会社の上司ら、実在感のあるキャラクターによる外部からの視点の導入も効いている。ニーチェのくだりは少々すべっていると思ったが。
まずは、長篇初監督作とは思えない洗練された作品のルックや編集の巧さに感心させられた。一方で、原作の脚色としてこの方向性は正解だったのだろうか? 痛切な悲恋ストーリーとして普遍性の高いコールガール(SUMIREが好演)とのエピソードは表面をなぞっただけで、大根仁作品にも通じる、自己批判や客観性を欠いた気恥ずかしい90年代サブカル懐古主義的な原作の側面が強調されている。そこにまだ商品価値があると思ったのなら、時流を見誤っていると言わざるを得ない。
コンパクトな設定と人物によるドッペルゲンガー現象仕立てのサイコホラーで、小粒なりに脚本は面白い。ただどうしても気になったのは、明日から産休に入るという心理カウンセラーが若すぎること。私にはハタチそこそこにしか見えないのだ。そんな彼女の前に現れる40歳前後の奇妙な女。その女が語る過去の性的な体験は、若いカウンセラーの未来の陰画か、或いは不倫のツケである出産への恐怖心からくる妄想なのか。いずれにしてもカウンセラーの若さが折角の脚本を弱めている。
映画を観ながらインパクトのある台詞や場面のメモをとることがあるが、本作でも何度かメモを。但し全部、食べ物絡み。例えばリンゴのキャラメル煮の作り方やブリ大根の炊き方。まだ実際に試してはいないが、劇中で西島秀俊が作る料理は本当に美味しそうで、テレビの料理番組顔負けの分かり易さ。だからか、愛し合う男性同士の小さな誤解やさやかな不安も、万事大ごとにはならず、美味しいものを食べて世はことも無し。それにしても私はこの映画の何を観たのだろうか。反省だ。
女子高の卒業時に3人でどこかに埋めたか隠したはずのタイムカプセル。その場所を、10年後に再会した3人は、誰も覚えていない。そんなもん? で闇雲に校庭のあちこちを勝手に掘り返し。廃校となり、近々取り壊される女子高。それぞれにいまの自分に自信をなくしている彼女たちは、週末になると無人の校舎に忍びこみ、持参した女子高の制服に着替え、ハシャいだり。20代後半、希望は過去にしかないのか。スケッチふうな場面が多く、大したことは起こらないが、終わりはスッキリ。
時系列を小刻みに過去へと戻しつつ、その都度、現在に立ち返るという進行はいささか煩わしい。けれども46歳独身の主人公の個人史のなかに、観ているこちらのノスタルジーと気恥ずかしさを誘う確かなリアリティーがあって、まるで時代の揺りかごに乗っているよう。“汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる”とは、30歳で亡くなった中原中也の詩だが、未熟なまま歳だけとってしまったのは決して〈ボクたち〉だけではない。自嘲でも甘えでもないやるせなさ。俳優陣がみないい。
蛾と、ふえるわかめが良い芝居をしている。そういう映画では人間も通常の人間以外のものになろうとしており、鈴木睦海氏、西山真来氏はそこに達する。撮影は「冷血」におけるコンラッド・ホールの域を狙っていてほとんどそれを果たしている。語りの組み方、ソニマージュ的な画と音の重ねと繋ぎは映画とはここまで凝ったことが出来る、すべきだと主張し、それを観る楽しさを拓く。映画美学校が正しく、スクール(流派)を形成している。講師陣の探求と蓄積は引き継がれている。
馴染みの客層を頼りにしてしまうということが多くのドラマの劇場版映画の緊張感のなさであり、本作もそのように始まる。だが同じスタッフ、キャストで続けられた練り上げは原作を超える肉付けを生み出し、主題上の別の緊張を再発見した。どうせ俺みたいなものは、と言って控訴を断念するホームレスの被差別意識に密やかに西島秀俊氏が同調してしまうワンカットなどは映画オリジナルだし、主人公ふたりの暮らしはもはや同性婚が制度化されてないことに対するゲリラ戦に見えた。
だいたいここ二十年で数千本の新作日本映画を観ているが、そこでは延々とひたすらに若者たちが人生を模索し、学校生活や働くなかでの悲喜交々と自己実現の困難が表され、人生八十年、百年時代としてはまだ若者の部類にある人物らが手に入れた短い過去に対してやたら回顧的になるという印象がある。別に悪いとは思わないがこの方向性の不滅は何なんだろう。そこには時代論のようなものと個人的な物語の二種があるが、後者が特に劣るわけではないことは本作を観ると感じられる。
私は原作者燃え殻氏より二歳年下、森山未来演じる佐藤の一歳年上、本作中の時代風俗と気分が記憶にあり体感としてわかる。自分の若き日々、90年代が、完全に時代考証のうえで再現される時代劇と化したことに思わず笑う。だからこそこの映画にかこつけて自分語りはするまい。作中の時代がリアルタイムでなかった人たちが眺めるためのグラフィティだと思った。「糸」「花束みたいな恋をした」路線に加わる佳作だがサブカル的自意識の苦しみと、回顧の叙情は先行二作を超える。