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現代の刀剣アクションという意味では懐かしの「忍者部隊月光」に通ずる部分があり、万全。しかし主人公が仁義をないがしろにし、個人的な復讐に固執するあまり、常識的な日本人には理解しかねる場面が多い。義理と人情を秤にかけりゃ、というモラルはアメリカ人には通じないらしい。映画空間の中核に位置する烏の襖図は吉田広明の名著『映画監督三隅研次』の表紙絵でもおなじみ。美術監督が大映ファンなのだろう。こういう細部は見所と言える。主人公の新型コスチュームとかもね。
ピカチュウとサトシの関係を思わせる人と機械の凸凹コンビが主役。友情は金じゃ買えないという世界観を体現し、その次元で文句はない。企画の根幹はSNSシステムに対して「こんなもん、要らねえよ」という話なのに、そういうわけにもいかなかったようでヘンな事態になった。こういう未来、大歓迎ですという終わり方なのだ。そうなの? ひたすら狂騒的なアニメ演出も何かヤケで色々やってる気がして痛々しい。ここに現れる人類は皆、絶望を恐れて互いをくすぐり合ってる感じだ。
民族にはそれぞれ固有の悪夢がある。アフリカ系アメリカ人には奴隷制がそう。突飛な趣向で闇の世界への現代人の「恐れというより欲動」を暴いた「アス」の製作チーム、今回の冒険はアンテベラムの時空間構築。この闇は深いぞ。タイトルの意味は知らずに見るのがお勧め。トリックは書けないが原理は単純。しかしその効果は絶大だ。仕掛けがバレていく、その過程が面白い。ポイントは主人公じゃなくて、もう一方の一人二役。私はかなり後まで気づかなかった。かえってそれが面白い。
先日鑑賞したアレサのドキュメンタリーとリンクするクライマックスに驚く。そこでも妙に抑圧された雰囲気の彼女。そういうわけか、と初めて納得。彼女を抑圧する親父フォレスト・ウィテカーも好演だ。それにしてもアレサが「望まれない妊娠」の当事者だったとは知らなかった。彼女に取りつく「魔」もそこに起因する問題かも。名門コロムビアに録音した〈ネイチャー・ボーイ〉で芽が出ず、新興アトランティックの〈ナチュラル・ウーマン〉で大成功とはまさに出来過ぎの実話である。
アクション監督の谷垣健治が参加していることもあり、映画「るろうに剣心」シリーズを随所で彷彿とさせる。よってアクション自体は切れ味も鋭く申し分ないものの、若干カメラの大げさな身振りに頼りすぎている向きが否めないのが難点だろうか。とはいえ登場人物の論理的な感情や行動原理が全く見えない筋書きさえ気にしなければ、日本でありながら日本ではないかのような荒唐無稽さや、血の契りを交わすスネークアイズとストームシャドーのブロマンス要素などジャンル的に楽しめる。
ロボットが暗がりの怖い少年のために自ら発光してやる描写には温かみを感じるが、それは設計されたプログラミングで可能なアクションであるはずで、であれば少年が「ポンコツ」ロボットのどこにそこまで惹かれ、最終的に全世界までもが崇めるまでに至りえたのか不明。プロットの詰めが甘く、単にエラーとバグを「人間味」にスライドさせ、ハイテクノロジーへの否定感情を組み合わせただけの表層的な物語に過ぎない。決して「ベイマックス」のような高い完成度を期待してはいけない。
二転三転する捻りのある展開は確かに映画として娯楽性が高い。南北戦争時代のプランテーションのパートは過去に幾度となく観てきた黒人奴隷制度における凄惨さの再演だが、学者で作家でもあるエリートの主人公が生きる現代パートとの対比が効いている。しかし終盤の白人と黒人のあまりに単純明快な敵対関係は戯画化され過ぎており、かつさらにこの時代にそれを女たちに実演させてしまうのだからそこに関しては地獄絵図でしかない。直近の「キャンディマン」の方がよほど聡明だろう。
起床=目覚めから始まる開巻の凡庸さに一抹の不安をおぼえたが、アレサ・フランクリンを演じるジェニファー・ハドソンの歌唱力と存在感は、文句なしに素晴らしい。しかし直近で公開されたブラック・ミュージックのドキュメンタリー映画「サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)」の熱気が記憶にまだ新しく色濃いために、劇中で挟み込まれる当時の映像やエンドロールでの本人の熱唱と比較してしまうと、映画自体の持つ強度がいささか弱く感じられもする。
ポップコーンを抱え、ド派手なアクション・シーンに身を任せればいい。どこまでいっても子供用玩具を映画化したブロックバスター映画に違いないんだから、細かいことにいちいち目くじらを立てなさんな。それはわかってる。それはわかってるんだけど、過去二作は最高だったんだ。ひるがえって本作は子供に対しても不親切すぎないか? スネーク・アイズとトミーの友情の端緒すら描写されないなんて。そんな映像片をかろうじて映画らしきものにつなぎとめる石田えりは世界水準。
われわれが生きるこの世界は才能や人格よりもフォロワー数といいねの数が重要視される世界だ。事象をどこまでも平等に、外的に定量化していく近代の結実として誕生したこの息苦しい世界に、大型のスマホのような不良ロボット・ロンとアナログ少年が立ち向かうという道具立ては悪くない。負け犬たちが並び立つ終盤も涙をそそる。しかし、いかんせんユーモアと語りがにぶい。現代のCGアニメは映像表現に限界がないため、むしろ物語の洗練に向かっているものだと思っていたのだが。
ジャネール・モネイにカメラを向けて録画ボタンを押すだけでもそれなりに面白い映画が撮れてしまうはずだ。それなのにこの映画はべらぼうにつまらない。それは本作の制作者がひとりよがりな正義と偏った思想を振りかざすことに夢中で物語ることを放棄しているからかもしれないし、あるいはエンタメという名のもと、軽蔑すべき方法で悲劇的な史実をあつかい、冒瀆しているからかもしれない。いずれにせよ本作が後半で見せる「解決」は更なる世界の分断以外の何をもたらすのだろう?
あの神秘的な体験をどう言語化したら良いだろう。たしかなのは本作鑑賞後、試写室のある青山通りから地下鉄に乗り、電車が多摩川を渡るまでの間、筆者の頬をあついものが流れ続けていたということだ。一度は神を殺しておきながらもまた神と生きざるを得なくなった弱くて自分勝手な生物が、アレサ・フランクリンという預言者を通して己の存在を受け取り直し祝福する姿は、名だたる宗教芸術にも引けを取らぬ、人類が育んだ文化の極点であり、何という恵みだと呟かずにはいられない。