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振られてダメになってから、どうなるかが見所と思うが、なかなか話が展開しない。同じ振られもの同士の復讐作戦。コミカルなやり取り。どうも乗れない。浮気相手の女子もお金の亡者という悪者設定からはみ出ていない。同じ男を取り合った女子二人の話になるかと思いきや、そうはならない。主人公の女子は、徹底的にいい人で、油断して見ているとホロッとくるシーンがいつくもあった。でもせっかく夢だったバスの運転手になったのに、その設定が生きていないのが残念だった。
ずっと追って見ていたのに、後半主人公のキャストが変わって、寂しい気がした。なぜどっちかのキャストで押さなかったのだろうか? 年齢の問題があるので、それはそれで無理があるか。人が死ぬ描写が、残酷で苦しかった。ずっと一緒にサバイバルしてきた友達が殺されるシーンのあっけらかんと無残なこと。サバイバルの過酷さがよく分かる。見終わって、なんとなく小野田さんがよく思えなかったのは、結構この人悪いことしてんじゃん。人殺してるし。と思ったからだった。
主人公の男がムカついてしょうがなかった。こんな男に惹かれていくヒロインにも納得いかなかった。男の行動がよくわからない。何を考えて、どういう風に生きてきたか見えない。キザでお調子者で下品。こいつのどこが面白くてカリスマになっていくかが分からない。人気者のYouTuberってこんな感じなんだろうか? 多分生理的にこの男が受け入れられないだけかもしれないが、見ているのが辛かった。ラストの展開、あれが最初にあればと思った。男の本心が見えたかもしれない。
風呂場で体を洗うシーン。末期癌のヒロインの背中が異様に美しかった。人が死ぬことや生きていくことについて、あれこれ考えた。不満なのは、難病ものにつきまとう真面目さだ。お涙頂戴のシーンは絶妙に省略していたり、時制が行ったり来たりする構成にしたりと色々工夫されているが、やっぱり辛気臭い。ヒロインに付き合う男二人のオタオタぶりは、好感が持てる。二人の芝居を見ているとホッとする。うまくいかないことをどういう風に切り抜けていくのか? そこが見所と思った。
彼氏を奪われ仕事を失くした女と、元彼と結婚した狡猾な女と、うだつの上がらない男を取り巻く愛憎劇をハートフルで包み込んだような作品。ニンニクたっぷりの餃子が食べたいのに中からあんこが出てきた感じ。結婚観など古臭く、女性が自立して生きることを本気で目指すならば、新しい世代の女性同士を対立させる話をなぜこの時代に描こうとするのか謎。便器を歯ブラシで磨く復讐方法など古典的で微笑ましくはあるのだが。とはいえ主人公がチャーミングで後味は決して悪くない。
「死ぬ権利はない」とされ、島民を殺しながらもなんとか生き延びるために戦い続けた壮絶さに驚かされる。戦争が起こす洗脳状態の恐ろしさが垣間見えおののくも、本作のテーマは多分そこではない。反戦的な意味よりも終戦を知らずに過ごした小野田寛郎さんの人生の奇抜さに興味を持ったことがモチベーションだとすれば納得もいくが、彼が帰国後右翼になった事実などにはまるで触れない。映画は終わっても現実は続くからこそ、実在の人物を描くことの難しさについて考えさせられる。
劇中でYouTuberが作る動画の面白さが全く理解できず、中盤は完全においてけぼりに。監督と同い年なのだが、自分が古い人間に思えてちょっと悲しい。あのノリについていけたらもっと一体感を味わえたかもしれない。それっぽいけど実際は中身のないネット世界にありがちな人物像をアンドリュー・ガーフィールドが見事に演じていてはまり役。「アンダー・ザ・シルバーレイク」もそうだったけど、少しクセのある役が本当に上手。リアルと非リアルの境目の曖昧さがリアルに描かれていた。
癌宣告を受けた妻とその家族、彼らを支える親友の人間関係と受け入れ方を丁寧に描く終わりの始まりの物語。宣告前と後をいったりきたりするなど、時系列をわざわざ複雑にすることが何か仕掛けになっているとは思えなかった。はたから見たらなぜそこまで? と思うほど献身的に友人夫婦を支えるデインの温かな存在が最後まで優しい。闘病ものがどうしても苦手というのもあるのだが、新作としての驚きはない。ジャーナリストで妻を支える夫役のケイシー・アフレックは特によかった。
傑作とはいうまい。しかし愛おしい作品だ。どの場面もイントロのようで、いまにも歌が始まりそうな予感に満ちていながら、けっして歌が歌われることはない。そういう危ういバランス感覚に貫かれている。「再婚喜劇」のフォーマットをいかに受け継ぎ、いかに更新するかという本作の課題は早い段階で明らかにされるので、私としては復縁ではないかたちで和解が訪れることをずっと願っていた。最後、結局は再婚喜劇かと思わせたところで、巧みにかわしてみせるラストの流れがいい。
ここに描かれるのは「日本」でも「戦争」でも「歴史」でもない。もし自律した自我のあり方を近代と呼ぶなら、近代的自我が孕むジレンマがこの寓話の主題である。「自分自身の司令官になれ」。上官の命令は、その命令に従うかぎり絶対に完遂できない。ドン・キホーテのごとき小野田の自己意識はその点はなから破綻する運命にあった。そんな破綻した自我を救うことはできるか。一つの劇を終わらせるには儀式が、つまりそのための演劇が必要である。それがこの映画の出した答えだった。
ミスキャストか。俳優と役柄が合っていない。始終ちぐはぐである。そう、アンドリュー・ガーフィールドのことだ。その演技はまるで「ジョーカー」のホアキン・フェニックスのようだと宣伝されていたが、そういう比較をするなら「スーサイド・スクワッド」でジョーカーをあてがわれた不運なジャレッド・レトのたぶん間違い。スコセッシもデ・ニーロも別に好きじゃないけど、「キング・オブ・コメディ」が懐かしい。はちゃめちゃだったサンドラ・バーンハートをふと思い出す。
カメラは「関係」を捉えられない。関係は事物ではなく、そのかぎりで描写の対象にならないからだ。またカメラは「変化」を捉えられない。変化は持続の中で生じる「変容」と異なり、時間軸を穿つ点だからだ。本作がショットの切り替えに自覚的なのはそれゆえである。なぜ車内の会話シーンが車外からの窓越しで終わるのか。デインが去ったあと、なぜマットは°90別の角度から捉え直されるのか。ニコルが息を引き取り、なぜドア越しのショットへと移っていくのか。理由は明らかだろう。