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主人公親子の「聞こえなさ」と結びついた演出、とりわけ音を視覚化するいくつかの仕掛けは、たとえば「ドント・ブリーズ」シリーズにおける盲目と音の関係をずらしたような斬新なサスペンス感覚をもたらすものとなっているし、星野源に瓜二つの犯人が凶器の一つとしてあえて斧を使うあたりのサービス精神も楽しい。だが、観客の予想を裏切ることだけを意識して組み立てたとしか思えない終盤の展開はあまりにも説得力に欠けており、物語を真面目に追う気が失せてしまった。
終盤登場するファンにはおなじみのトゥーリッキではなく、彼女と出会う前のヴィヴィカとの関係を中心的に描くことで、既存のドキュメンタリー作品との差別化に成功している。個人的には戦争とムーミンの関わりやトーベの不安や孤独をもう少し掘り下げて欲しかった気もするが、徹底したリサーチを踏まえつつも、イメージが壊れない程度に時流に寄せて自由で奔放な女性トーベが恋愛を謳歌する姿を際立たせようとする優れたバランス感覚が、作品のポップさに繋がっていることも確か。
ステイサムのアクションが炸裂するお約束の結末に向けて観客の期待をいかにはぐらかすかという点で、仕事を中心とする地味な日常が軽妙な会話と共に描かれる序盤は面白い。しかし、業務の範疇を逸脱する彼の暴力に周囲が疑惑の目を向け始めたと思った矢先に、拍子抜けする早さで彼の潜入行動の背景が懇切丁寧に説明されてしまうせいで、中盤以降は緊迫感が薄れてしまった。同じ事件を何度も語り直す中で次第に真相に近づいていく構成も、目先を変える効果よりはクドさの印象が強い。
ボウイの家族による認可が得られず本人の楽曲が一切使用されていないにもかかわらず、なぜかその点を除いては細部にこだわった考証を前提とした伝記映画として作られており、あまりにもどっちつかず。NYでヴェルヴェッツのライヴを観た後でルー・リードと勘違いして後任ボーカルと話していたことに気づいたボウイ役のジョニー・フリンが反語として問う「ロックスターとそれを真似る人に違いはある?」という問いが虚しく響く一作。彼の演奏場面そのものは決して悪くないのだが。
聴覚を持たぬ主人公を見て頭をよぎる、昨今流行りの感覚制限系ホラーかぁという嫌~な予感は、殺人鬼が標的に向かって突如走り出した瞬間に一蹴される。あまりに清々しいその走りっぷりは、殺人に至る動機も原因も豪快に置き去りにし、気づけば主演も助演も三つ巴に入り乱れ、ひたすらに走りまくるシャトルランホラーが開幕する。住宅街から繁華街まで一夜の間で走り続けるミニマルな設定も聡明で、間の抜けた警官から安っぽいエピローグまでなにもかもが素晴らしく狂おしい。
旧来の価値観やセクシャリティも含めた様々な境界が新たに書き換えられていく現代にあって、ハイ(カルチャー)とロー(カルチャー)の対立を描く作品が目立ち始めているようで、ひとまず本作もその一つだろう。同性愛を隠すことがなかったトーベ・ヤンソンはしかし、このハイとローの境界には囚われ続けているのが面白い。ローがハイに対するカウンターではなく、ローはローとしてありながらハイとローの垣根を越える自由を描こうとする本作には現代的な課題が詰まっている。
ジェイソン・ステイサムが理由もなく撃ち損じるはずがないわけで、間違いなく裏があると察知させるのは監督の力量というよりもステイサムという俳優のワザだ。だからこそ、裏の事情を描くパートが説明くさくなりすぎているのが残念。また同じく俳優の恩恵、イキがっているが動揺すると途端に情けなくなる俳優代表ジョシュ・ハートネットが、まさにピタリという役どころで、その近年稀に見る情けないやられ方は、銃撃戦の最中に見る者を笑顔にさせてくれてとても良い。
兄の精神的な病気、容姿に対する偏見、そして自分が何者であるのかわからず傷つくナイーブな心情、どれもがカルチャーアイコンになる前のボウイが抱えた悩みであったのだろうが、どれもがいささか内面的かつ抽象的に語られすぎているため、見れば見るほど何処にでもいる悩める青年に見えてしまう。そんなボウイより、アメリカを共に旅したパブリシストであり、良き隣人のロン・オバーマンの方がよほど魅力的。映画はボウイの内側よりも彼こそ見つめるべきではなかったか。
ともに聴覚に障害を持つ娘と母が、連続殺人鬼に追われる一夜の出来事。駐車場、警察署、自宅、狭い坂道に繁華街と、場所と状況を変えて数珠繋ぎの死闘が。時に音を消し主人公のよるべなさを観る者に共有させ、時に騒音や激しい光で静寂を突如切り裂く。恐怖を煽る演出が斬新かつ巧みで、先が読めないギリギリの緊張が続く。手話を操る二人をはじめ俳優陣は一様に達者だが、犯人役ウィ・ハジュンの市井に溶け込む憎らしいまでの擬態ぶりに唸った。新鋭クォン・オスン。その才気に刮目!
偉大なる父の掲げる芸術の壁を前に怯み、挫け、苛立ち、男性との、そして女性との道ならぬ恋に溺れ、酒を浴び、紫煙の中で夜通し踊り狂う若き日のトーベ・ヤンソン。『ムーミン』を描き始めた頃から、ヴィヴィカとの禁断の愛に破れるまでの日々は、成功も収めつつ終始どこか物悲しく、「冬」の木枯らしの画が印象的に後を引く。頽廃の匂いと童話の世界、そのギャップは興味深いが、欲を言えば最後に登場する、長年のパートナーとなるトゥーリッキと島で語らう「夏」の日も見たかった。
原題を直訳すれば、「男の怒り」。ジェイソン・ステイサム演じる主人公は一人、静かに怒っている。何に?どうして? 真相は、バラバラに提示される時間軸を手繰るごとに明らかになってゆく。ガイ・リッチーとの名コンビ、16年ぶりに復活! と聞き、まずは往年の軽妙なノリの集団犯罪映画を期待してしまったが、フランスの復讐劇をリメイクした今回は、遊びもほぼなく、至極シリアス。“H”が寡黙なのは当然として、他の面々の個性がもっと弾けてくれたら、胸のすく後味になったかも⁉
家族の承認が取れず、本人の楽曲は不使用という権利を巡る一件だけで敬遠するのは勿体ない。70年代初頭のデヴィッド・ボウイの姿をただなぞるのではなく、演じるジョニー・フリン独自の持ち味とあの頃の空気をも盛り込み、成功を夢見る者の夜明け前、まだ明け暮れの時期の懊悩と畏れを映画は繊細に掬い取る。見せかけの面妖さを脱ぎ捨て、新たな地平に飛び出してゆく過程はもちろん、アメリカで出会うパブリシスト、ロンとの道行きなど、映画の、音楽の、普遍の力に引き込まれた。