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問題の町長候補になるのが左派リベラル映画の傑作「メイトワン1920」で主役を演じたクリス・クーパー。という仕掛けが憎い。実はこの映画のポイントは物語終了の後、エンドクレジットにおいて本物の政治ジャーナリストが語るコメントにこそある。果たして彼のトラップは「良き民主主義」体現であったのかどうか。謎はむしろハッピーエンド後に集約されて現れるということだ。スティーヴを巡る三人の女についてもなぜか三つのオチが並立して示されるという不条理が鍵。なのかな。
バルセロナ五輪の頃ってほとんど記憶にないのだが、エイズを巡る都市伝説がはびこっていたらしい。そうか。ようこそエイズの世界へ、というヤツね。この映画の少女たちは修道院に感性的に保護されていて、それ故にかえって外の世界へのあこがれも強い。エイズって何だか知ってるわけじゃなさそうだ。引用される映画「汚れなき悪戯」の孤児マルセリーノのような旧弊な世界観からはかけ離れているようでも純情な心のありようは似たりよったり。ほっとさせられる。物語性はかなり弱い。
「ザッツ・エンタテイメント・パート3」でレナ・ホーンが口ずさむスタンダード曲〈ウェア・オア・ウェン〉の使われ方がヒント。歌詞も記憶がテーマになっていて納得。フィルム・ノワールの枠組みが窮屈な印象もあるが、代わりに香港ノワールのスターとしてダニエル・ウーが現れて大暴れ、点数を稼ぐ。もっと暴れても良かった。海面上昇アメリカというバラードSF的発想に度肝を抜かれ「アルタード・ステーツ」風の記憶想起装置が諸星大二郎っぽい奇想にぴたっとマッチする。
記録写真史上に名高いあの水俣の母子の写真がどのように撮影されたかをめぐるドキュメント風フィクション。ここまできちんと演出された写真だったのも知らなかった。大画面で見られるのは貴重。フッテージに土本典昭作品も少し用いられている。歴史的団交の場でテーブルに座り込む交渉派リーダーの姿も有名なスミスの写真にあるが、あまりあれこれ「私も知ってる」などとはしゃがずに真っさらな目で見た方がいい。水俣訴訟というのは公害告発元年なんだというのが最後によく分かる。
主人公の偽善的な「多様性」への配慮が戯画化されているのだろうが、本作は意図的な戯画化要素のみで構成しきれておらず、随所に作り手の無意識による差別的思想が露呈してしまっているように見受けられる。その時点で風刺作品として脆弱さを抱え込んでしまったのではないか。それまでの展開を覆す結末にあるカネと政治をめぐる啓蒙的なメッセージそのものは真っ当なのかもしれないが、スティーヴ・カレルのコメディ俳優としての力量をもってしても質の高いコメディ映画とは言い難い。
少女たちが声を発さずに歌わされる授業風景の序奏〈無声〉から、合唱風景の終奏〈有声〉への転調。それは、少女が自らの〈声〉を獲得した青春譚であると同時に、無声から開始し〈音〉を獲得した映画史についての作品でもあることを両義的に成立させている。そんな映画への憧憬や映画史的記憶の横溢は、映画館で少女たちが見つめる「汚れなき悪戯」(55)の挿入などにも表われているだろう。「はちどり」(18)のように繊細なニュアンスのみで、固有の政治性が照射されてゆく。
人は未来を希求し常に前を向いて生きることを強いられる。過去に囚われてはいけない。そんな箴言は未来を上位、過去を下位に置き、否応なくわたしたちの時間軸に価値の序列をもたらすが、本作はそれを転覆させようとしているかのようだ。かつてある映画評論家は「原則としてフィルム・ノワールにハッピーエンディングはない」と言ったが、厳密な意味でジャンルを踏襲するこの女性の作家は、旧来のファムファタル像を換骨奪胎すると共に「ハッピーエンディング」の新たな解釈を示す。
写真家の一人称を担うカメラは、独善的な眼差しが異国の地の人々へと開きゆく動勢を明示的に伴う。彼がファインダーを覗いて発する「美しい」なる言葉の危うさ。この主題にあって、意匠を凝らした洒脱な画作りと敢えて娯楽性をとる脚色による作劇が賛否分かれるのは無論想像に難くないが、フィクションの力を信じようと思わせる強度がある。ただこの物語の在り方であればタイトルは「MINAMATA」ではなくユージン(アイリーン)に焦点化させなければ整合性が取れないのでは。
私にはスティーヴ・カレルかローズ・バーンが出ているコメディにハズレなしという持論がある。とはいえ選挙コメディと聞いて少しだけ警戒したことは認めなければならない。だが蓋を開けてみると本作も持論に違わぬ抜けのよい快作であった。選挙という民主主義社会の根幹に位置するシステムでさえも食い物にしようとする後期資本主義という怪物をどうにか抑え込みながら、もはや骨抜きにされつつある民主主義を再起動させるために必要なユーモアの断片が本作にはちりばめられている。
ひょっとしたら世界はひとつのネイションなのではないかと錯覚するほど既視感にまみれたあるある演出が連発される、優等生的なカミング・オブ・エイジ映画だ。ヒロインをはじめ俳優たちの芝居も抜け目なくまとまってはいるが、少女の思春期を切り取った同じスペインの偉大なる先達たちの俳優が見せたような唯一性は見られない。血の話で侮辱された主人公が結局血を拠り所にしていては元も子もなく、早熟な転校生との関係性の中で新たな拠り所を見出すべきだったと思うのだが。
気候変動により世界が「なかば」水没しているという設定自体は悪くない。しかしフィクション・ラインや物語の前提が主人公の思いつくままに書き換えられていくので、サスペンスの約束事をほとんど理解出来ないまま唐突に謎解きがはじまる。そして、主人公とヒロインの感情の流れもほとんど追うことが出来ないがゆえに、ただただお互いの外見が気に入ったのであろうと推測されるふたりが展開する大仰なすったもんだは観客を完全に置き去りにし、誰にカタルシスをもたらすのであろう。
役者たちが素晴らしい。美波や加瀬亮は英語の訛りの齟齬こそあれ、キャリアベスト級の熱演を見せている。それでもここには水俣の海が写っていない。こうした題材をセルビアの「どこか」で撮ってしまうという意識の底には水俣が世界に数多ある公害問題のひとつにすぎないという意識が横たわっている。環境保護団体の大使もつとめるという本作の監督が持つべきだったのは環境問題への配慮以前に、眼前にたたずむ、安易な共感を許さない他者と向き合うための倫理だったのではないか。