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なかなか話が始まんないなあと思っているうちに、終わってしまった。事件らしいものがあんまりないからだろう。でも音楽が作られていく過程を丁寧に描いていて、特にエレクトロ・ミュージックの好きな人にはたまんない映画だろうと思う。作曲家の彼女と歌手が出会って、何度も何度も試しながら少しずつ音楽を作り上げていく。そのセッションの楽しそうなこと。二人のテンションが徐々に上がっていくのがわかる。凄い凄いとはしゃぐ二人の顔は、物を作る喜びに満ち溢れている。良い。
血中アルコール濃度0・05%で全てがうまくいく。そんなアホな。アレコレうまくいかない中年たちが、真剣にアホなことにのめり込んでいく。小さい話だけど、身につまされた。酔っ払って馬鹿騒ぎをしている彼らを見ていると、だんだん切ない気持ちになってくる。そんなことでうまくいくわけがない。残酷な失敗がいくつも重なる。それでも生きていかなきゃいけない彼らを自分と一緒だと思った。最初は飲まないと言っていた主人公が、結局飲んじゃうのが、微笑ましくてよかった。
拷問の描写がエグい。こんなんよく考えつくよなと感心した。その残忍さに、犯人は相当狂ったやつだと予想できる。主人公の警察官は、なかなか犯人にたどり着けない。その間にもどんどん人が死ぬ。数々の拷問を見せるのが目的かのように、その様子が執拗に描かれる。実にグロい。気持ち悪い。この描写のエグさはマネできないと思う。犯人が分かって、その理由が分かって、なんか納得いかなかった。犯人がそんな狂った奴に見えなかった。もっとわけ分かんないやつだと良かった。
幽霊が出てくると、ウエットなものを想像してしまいがちだけど(未練を残して死んだ幽霊の願いをかなえる話とか)、違った。かなりドライな幽霊でびっくりした。元妻の幽霊は気が強くて、主人公の今の妻も気が強くて、女二人でバチバチ火花を散らす。間に入った主人公の作家はおろおろするばかり。いつの世も男は情けなく、女は強い。ひたすらセコい男が哀れでおかしかった。元妻の幽霊と昔のようにバーへ行き、見つめ合うシーンがちょっとだけウエットで、ホッとした。
体感25分! ただエレクトロニカの世界に身を預けているだけで、始まったと思ったら終わっている。それもまだ観ていたいのにという贅沢な余韻を残して。男性優位の音楽業界で「美人なんだからボーカルやれば?」という何重にも塗り重ねられた侮辱にも、怒りあきれながらも邪魔されずに自らの道を進む。シンプルで潔く、余計な要素をはさまない。創作の情熱に引っ張られて行動する主人公を追いかけるようにカメラは自然とアルマ・ホドロフスキーに吸い寄せられていく。また観たい。
根が暗いのでお酒を飲まないと喋れないというのは痛いほどよくわかる。実際に何度も失敗もしてきた身としては登場人物たちが他人とは思えない。人生を向上させる実験という大義名分のもと、さえない教師たちが日々酒を浴びる姿が切なくも愛おしくてたまらない。どうしてマッツ・ミケルセンの目はあんなに愛情深いのだろう。『ハンニバル』で完全に彼の虜になってから心待ちにしていた作品。バレエを学びプロダンサーとしても活躍したマッツが踊るシーンにも釘付けで、至福の一言。
映画というか、テレビドラマを観ているという印象だった。肉体的にも精神的にも極限まで痛めつける、あんなにすごい拷問&殺人マシーンを作る才能があるならば、殺人なんてやってる場合じゃないよといいたくなる。犯人に変態性が足りないというか。残虐な「警官殺し」の動機も含めて既視感があった。これまで「ソウ」シリーズをちゃんと追ってきていないのにもかかわらず、ストーリーがなぜか予想できてしまう。しかし過去に8作もあるシリーズの9作目ってすごい人気ぶり。
アール・デコ調のインテリアや30年代のファッション、英国のアンティーク小物に至るまで、幽霊になってこの世界に迷いこみたいと思わせるほど豪華でうっとり。一方、なぜこの時代に40年代の有名な舞台を映画化しようとしたのか疑問。このコメディを始終楽しみながら観ていたけれど新作としては物足りない。霊能者役のジュディ・デンチはきっと演じるのが楽しかっただろうな。ジュディだけでなく、元妻役のレスリー・マン、現妻役のアイラ・フィッシャーなど女優が揃って魅力的。
一日の出来事にしたのが工夫だろうが、その工夫も含めて型通りである。作劇に感じられるのは作為であって、創意ではない。しかも、首から上のミディアム・クロースアップを軸に構成されるため、これではすべてが感情のドラマに回収されてしまう。俗情におもねった一喜一憂の物語のどこがいいのか。壁一面を覆う機材を正面から捉えたショットや装置をいじる手つきの接写を主役にすればよかった。ところでゴダール&ミエヴィル「パート2」の特大ポスターがずっと気になった。
こういうのは知らない振りをしておくのが粋だと教わった気がするが、一応突っ込んでおく。これはカサヴェテスの「ハズバンズ」ってことですよね。計画的に、節度をもって、ハズバンズを日常に取り入れる。すると、社会生活が円滑にって、それはやっぱり無理な話だろう。どういう発想なのか、理解に苦しむ。終盤に友人の葬式があって、「ハズバンズ」の逆なんですよというあたりも実に言い訳めいている。私は酒を飲まないので、辛口なのは下戸の僻みかもしれません。ご寛恕を。
この種の映画は最後の「答え合わせ」に顕著だが、フラッシュバックで成り立っている。犯人の告白しかり、それを聞いて数々の伏線を思い出す主人公しかり。回想が映像となり、映像はかならず誰かに帰属させられる。そういう意味では、映像の主体を疑わない素朴さがすべてを支える台座であり、そのあたりにどう揺さぶりをかけるかが焦点のひとつ。だが、フィッチの虐殺場面がなぜかジークの回想(幻視?)のように挿入される点に、本作の要領の悪さが露呈している。たぶん凡ミスだ。
レスリー・マンが主演級の配役だと知り、見る前は★5付ける気満々だったが、彼女が出てくるまでに30分もかかるのである。この一点からわかるように、この映画はコメディのくせしてテンポが悪いのだ。車が崖から海へと飛び落ちるロングショットに組み合わされるレスリー・マンの「ウプス」は感嘆する素晴らしさだったが、それをきっかけに始まるラストの展開にももたつきが残る。「陽気な幽霊」の方がまだしも小気味良い。ちなみにケイ・ハモンドの口からは「オウ、オウ、オウ」。