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横浜中華街にも大陸派と台湾派がいて対立していたなんて、ちょっと考えれば分かることなのに本作を観るまで思い至らなかった。恥ずかしい。その証言集としてだけで価値がある。ただ痒いところに手が届かない。文化大革命や天安門事件、今の中国をどう思っているか、なぜ問わないのか。個人と国家の関係が見えるようで見えない。15歳で半分中国人だと知った監督自身のアイデンティティにも迫れていない。本作のラストをファーストシーンにした続篇に期待。まだ何も始まっていない。
スゲエと観ながら何回口にしたことか。どうやってあんな映像を撮ったのか。30年にわたる取材の成果だと知る。しかも、このご時世に鯨漁。年10頭獲れれば村全体が生活出来る。鯨の命を奪うことへの畏れ。死にゆく鯨の目。映像ですべてを語ろうとする強い意志。自分に問わざるを得ない。この映画とどう向き合うのか。欲を言えば、物々交換だけでなく貨幣経済の浸透も見たかった。スマホやってる若者も。しかし、他の誰にも撮れない唯一無二の映画。五輪の弁当大量廃棄。現代人必見か。
まさか本当に「カレーライスができるまで」の映画だとは。子供の死から立ち直れず、妻とも別居した男。3日後の妻の誕生日に向けてカレーを作り始める。やめてくれと思う。喪失や救済や再生を便利使いして消費するのは。開始5分ですべて読める。52分が長い。中篇で抑制の効いたいい話でいい役者使ってと企画会議が目に浮かぶ。映画をナメてるのか。それなら長篇で堂々とやれよ。この程度の映画なら作らないで欲しい。あと、ルーは火を止めてから入れるので。それくらいちゃんとやってね。
福島と名画座(ミニシアター?)。なんというタイムリーな企画。しかし、主人公と恩師の回想に比べて、映画館の話が弱過ぎる。街の人々のステレオタイプな変わり身。批評だとしてもあんまりでは。福島の人で3・11以後を「大震災から」と言う人を見たことがない。みんな、「原発事故から」だ。何か忖度でもあったのか。震災、コロナと現実を取り込むなら、マスクをさせないといけないのでは。ハンパな現実とのコミットはかえって見苦しいと自戒を込めて。地方の単館の現状認識も甘い。
横浜中華街を舞台に、在日華僑が抱える多様な葛藤を『ファミリーヒストリー』風に綴ったドキュメンタリー。祖国の言葉を話せない人々も多くいる中で、彼らがさまざまな思いを抱えて生きているのを捉えていて、特に二つに分断された中華学校の歴史と教育の違いが面白い。しかし基本的には身の回りの人々の体験に終始していて、林隆太監督のイデオロギー的立場が見えてこないのが惜しい。メッセージ性のない記録映画からどのような価値を生み出しうるのか監督にはよく考えてほしい。
インドネシアの小島でマンタやクジラの漁を営んで暮らす人々を捉えたドキュメンタリー。日本語のナレーションが一切ないのと、前半で流れるリラクゼーション・ミュージックみたいな音楽がやや眠気を誘う。画面はいずれも美しく、ドローン撮影が効果を発揮している。後半のクジラ漁のダイナミックさには目が釘付け。銛を手に海に飛び込む男たち。紺碧の海がクジラの鮮血に染まり、彼らは網で巨大な海の王者を仕留める。「クジラと共に生きている」という長老の言葉が深く胸に残る。
リリー・フランキーの一人芝居。いい感じで腹が出ている。最初のオカルト的展開には??となったが、フツーにハートウォーミング・ストーリーでちょっと笑った。ラジオを介して離れて暮らす妻と繋がる出来過ぎのシナリオには少し違和感。「だるまさんがころんだ」のくだりもちょっとやりすぎではないか? 面白くないわけではないのだが、いかんせん尺が短い。せめて、『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』(2013、スティーヴン・ナイト)くらいの長さがほしかった。
閉館の危機にある名画座を復活させようと奮闘する若い女性の物語。恩師との回想シーンが長いのだが、その恩師役の大久保佳代子がだらしないエロさを醸し出して女優としての魅力を開花させている。高畑充希が身につけているデカいピアスがちょい目障り。ハッピー・エンディングにはタナダユキ監督の願いが込められていると思われるが、地方のミニシアター、名画座が直面している現実はそう甘くはないだろう。柳家喬太郎好きの評者としては、彼の演技が意外にも普通だったのが残念。
横浜中華街の華僑社会における大陸派と台湾派の対立と和解の歴史を、華僑4世の監督が追ったドキュメンタリー。中華学校での教育方針を巡り両派が衝突した1952年の「学校事件」以降の流れを、父や伯父、その恩師やゆかりの人らへの取材を通して明らかにしていく。父の出自を知らぬまま育ち、文化大革命の実感ももてない30代の監督の青いながらも曇りのない眼差しが、複雑な問題の本質に迫る。中台関係の緊張が高まる今、華僑社会の成熟が物語るものはより深くより重い。
小舟の舳先に立った男が巨大なクジラに飛びかかり、銛を突く。クジラも反撃し、舟に体当たりを食らわす。インドネシアの寒村で400年続くというクジラ漁に密着。小舟に同乗して撮った迫真の映像に加え、ドローンを駆使した空撮で舟とクジラの闘いをダイナミックにとらえる。「アラン」(34)以来の題材に、最新の撮影機器で迫るドキュメンタリーの現在形。村人たちによる獲物の解体作業も壮観で、人口1500人の村が年間10頭クジラを捕れば生きていけるという経済的側面を伝える。
幼い息子を難病で亡くし、そのために妻にも去られた男の喪失感と無力感を、アパートで独りカレーを作るリリー・フランキーが表現する。外は雨が降りしきり、小さな部屋の中ではラジオと生活音が聴こえるだけ。そんなミニマルな一人芝居として始まり、次第に家族の事情が明らかになる。序盤はちょっと期待をもたせるが、中盤から感情をあおる音楽が流れ始め、息子の写真が倒れるようなオカルト現象まで起きて、興覚め。男が涙を流すころには、すっかり凡庸なメロドラマに着地する。
不器用な人物がじたばた生きること、家族や血縁なんて幻想に過ぎないこと、孤独な魂が相寄ること。タナダユキの映画の底流にある人生観がそのまま提示され、主観がそのまま語られる。映画への愛もそうだろう。南相馬の映画館・朝日座という強力な磁場が、作り手の素の部分を引き出したのか。だからこれは純然たるファンタジーなのだ。ご当地映画に東日本大震災から10年たった被災地の現実も希望も見えないことに、この国の無策を思い知り愕然としたのは私だけだろうか。