パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
物語の構造そのものに手を突っ込んだ作品というのはよほどの自信と技術がないとできないことで、原作はそれをクリアしているのかもしれないが、少なくとも本作は「映像化不可能と言われ続けてきた」とかいうレベルのはるか手前でつまづいている。冒頭のシーンからひたすら台詞が薄ら寒く、回想ショットで説明を重ねれば重ねるほどリズムはもたつく。小説家という職業が何か特別なものであるという前提、藤原竜也の独りよがりなハードボイルド風演技、すべてがしんどかった。
いかにも「小学校の夏休み推薦図書」的な作品世界にあって、主人公ユイのキャラクターの可憐さと彼女を演じた芦田愛菜の魅力が際立っているが、結局は「美少女とアニミズム」というこれまで数限りなく繰り返されてきた国内アニメ映画の類型に収まってしまっているような。野暮を承知で言うなら、この「家族」を黙認する行政サイドの大らかさも気になって仕方がなかった。現実の震災をモチーフにしているなら、長篇作品ではそこまでちゃんと描き込む必要があるように思うのだが。
21世紀に入ってからも存続している東映京都撮影所において、1999年から20年以上コンスタントに制作されてきたこのテレビドラマの果たした役割は大きかったに違いない。まるで楽屋落ちのようにそれを誇示するクライマックスの一連のシーンに、満を持しての映画化である本企画のエッセンスが詰まっている。もっとも、それ以外のシーンでは科学捜査という静的な題材と映画的スペクタクルの相性の悪さがどうしても露呈していて、「ドラマファンへのサービス」の域は脱していない。
「妻子を失った中年男性」という主人公の設定。台詞やナレーションに頼ることなく原作の世界設計をじっくりと観客に理解させて、風呂敷を広げすぎることなく綺麗に物語を着地させていること。映画化の際にそれらがどのように検討されていったのかはわからないが、結果的に現在の国内アニメ映画へのアンチテーゼとなっている。もう一人の主人公が、難病の治療法を研究する医療従事者(医術師)であるという同時代性も、ただの偶然ではなく、そんな製作サイドの志が引き寄せたのだろう。
ハンカチから鳩が、といえばマジシャンがよく使うトリックだが、この映画の鳩は富山と東京を慌ただしく飛び回り、その度にトラブルが。いや、そもそも鳩って、何のこと、誰のこと? 万札を本の栞に使う癖がある作家が巻き込まれたニセ札騒動。と見せ掛けた創作秘話。と思わせて進行する人騒がせなミステリー仕立てのコメディで、曰くありげな人物やエピソードが、ただの捨て駒だったりするのが心憎い。あっ、もしかしたらこの映画自体が、捨て駒だったり。で、笑うのは藤原竜也。
東北地方に残る民話や伝説の生き物たちを、人間界の一大事の頼りになる助っ人として甦らせたファンタジーで、マヨイガのガとは家を指すらしい。明かりを求めて集まってくる蛾の意味も、あるような? それにしても青空に白い雲、緑の山野に青い海と、風景映像の美しさは出色で、一方、海の近くには大津波の痕跡もまだ残っていて。そんな中、拠り所のない少女二人が不思議老女と出会い、奇妙な冒険をするのだが、少女たちの設定の痛さが気になり、妖怪たちのいたずらも楽しめない。
このドラマシリーズは99年にスタートしたそうだが、実は私はこの劇場版がシリーズとの初対面。むろん噂ぐらいは聞いていたが。だから不可解な事件や犯罪に挑む科捜研の活躍、大いに期待したのだが、劇場版ということで気張ったのか、事件が大袈裟すぎていささかシラケる。科学者が科学者を実験台にしたような奇妙な犯罪。足で稼ぐ刑事ものと違って、みんな突っ立ったまま専門用語を口にするのはシリーズの特徴なのだろうが、これも何だか。終盤の沢口靖子の華麗な見せ場には感心。
かなり馴染みにくい人名、地名などの固有名詞には戸惑うが、物語を引っ張っていくキャラクターと場面ごとの画像に風格とパワーがあり、安藤雅司監督の作画力に敬服する。ザックリ言えば、奇病が蔓延する世界を、帰るべき故郷のない元戦士が、みなしごの幼女と子連れ狼的な旅をする話に、奇病の解明に挑む若き医術師が絡んでいくのだが、異なる民族や種族のエピソードなどもスリリング。冒頭の岩塩鉱場面も生々しい。そして大自然の魂のような生きものたち。ぜひシリーズ化を。
※執筆者が別の作品と勘違いしており、原稿締切日までに鑑賞できませんでした。
女性たちがユートピアで暮らす。そこはとてもよかった。全篇の画面も。しかし微妙に芯を外すような、誤魔化される感じもある。アナーキーな妖怪は好きだが本作の妖怪はどこか紐付きの、官製の匂いがする。常日頃無神論唯物論、一乗寺の決斗に臨む武蔵のように、神仏に恃まず、と生きているので、狛犬、地蔵に手を合わせていいことあるよ、が嫌だ。被災地から住民が去るのは悪い妖怪のせいで、それを良い妖怪や地蔵が助けてくれる。ノレない。作中の善男善女は何党に投票するのか。
骨子としては「リング」を思わせる呪いの如き同時多発死と、それが主人公に迫ったときに展開する、コナン・ドイルのホームズものでも印象的な一篇「瀕死の探偵」に通じるネタ。本作が一種の警察もの刑事ものであることは、「ダーティハリー」「クワイヤボーイズ」「リーサル・ウェポン」に通じる主題〝飛び降り〟から規定されるだろう。それに関して本作の沢口靖子はほとんどメル・ギブソンだ。京都に映画撮影所があってよかった、という台詞には、まあそうですかねえと思う。
思い返せば自分の娘が二、三歳の頃、片腕で抱き上げられる体重十数キロの頃は抱っこして歩くといつまでもどこまでも歩ける気がしたものだ。岩や米袋を担ぐのと違い時折ぽわぽわした手でギュッと掴んできたりするから一緒だと独りで手ぶらで歩くよりも長く遠くまで歩いてしまえると思った。「子連れ狼」なんかが表現していたことがわかったわけだが、そういうことは本作にもあった。モンゴルと風の谷が合体したような世界は目に心地よかったが、帝政のゆるぎなさは不気味だった。