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オフブロードウェイでの初演から16年を経て、(いくつかの脚色は加えられてはいるが)政治的にもますますアクチュアリティを増しているリン=マニュエル・ミランダの作劇の素晴らしさだけでなく、「クレイジー・リッチ!」では保留せざるを得なかったジョン・M・チュウの演出手腕にも唸らされた。舞台に対する明確なアドバンテージであるロケーションの力を最大限活かした、ミュージカル映画の「不自然さ」を逆手にとった非現実的なギミックの数々に素直に大興奮。
とにかく喋りすぎな宇宙人。緊張感皆無の展開。ゴジラのグローバルIPとしての定着、ジェームズ・ガン復帰作「ザ・スーサイド・スクワッド」のクライマックスシーンの楽しさなど、日本特撮文化のグローバル化を軽んじるつもりはないが、オマージュという便利な言葉をもってしても、本作は演出のクオリティにおいて現在の商業映画の基準に達していない。子供たちの健気な演技もあって観ていて嫌な気分になるような作品ではないし、微笑ましさを覚える観客もいるとは思うけれど。
馬乗りにとって雷鳴がどれだけ危険かという説明もなく話がどんどん進行していく冒頭から、元保安官が一か八かの勝負に身を投じるラストまで、とても現代のアメリカ映画とは思えない作り手の高い志に貫かれたネオ西部劇。ネイティブ・アメリカンの描き方や、物語の決定権を握り続けるのが元保安官の妻というところに、「現在の映画」としての必然性もある。監督の過去のフィルモグラフィーがまったくあてにならないこういう映画に出合うことがあるから、映画は面白い。
「韓国歴代最高のホラー映画と謳われる」と資料にあるリメイク元の1986年版は、ネットで確認できる範囲だと確かに強烈なビジュアルで、作られた時期をふまえても一定の韓国映画史的な価値のある作品だったのだろう。翻って、本国で32年後に製作された本作は、韓国ドラマ的な平べったい照明と無駄な動きの多いカメラによるクリアなだけの映像で、リメイクの意義はどこにあったのだろうか? 蒼井優的な雰囲気と杉咲花的な視線の強さを併せ持つソン・ナウンの魅力が救い。
移民の街、ワシントン・ハイツを舞台にした、傑作ミュージカルの映画化だけあって、歌とダンスのシーンが素晴らしい。中でも、プールでの〈96,000〉のパフォーマンスと、ニーナ&ベニーのファンタスティックな壁ダンスが印象的。ハイツのゴッドマザー・アブエラ(手袋のエピソードがさりげなくて素敵)や、ハイツのチアリーダー(言い得て妙!)ことダニエラ、年配女性陣の存在感が圧倒的すぎて、主人公ウスナビのキャラクターが、弱まってしまった感も。恰好いいのだけれど。
B級ホラーと侮るなかれ、監督、脚本、製作、編集を一手に引き受けた、カナダの天才過激映像集団アストロン6のスティーヴン・コスタンスキの才能がスパーク。「真の怪物は人間だ」という、大人の出まかせも、きっちり回収! クレイジーなパニック劇の中から、クールな勇気を引きだしていく、見事な構成だ。作品の世界観にぴったりマッチした音楽も楽しい。主人公ミミ役、ニタ=ジョゼ・ハンナの、聞き分け悪く、「私が一番」な子供像も、どこか懐かしく、キュートだ。すごいぞPG!
原題も邦題も、観客の想像をかき立てるタイトルだ。60年代の設定だが、現代的なテーマをはらんだスリリングな展開が繰り広げられていく。暴れ馬を調教するように愛孫奪還劇を牽引するのはダイアン・レイン。姑然と嫁を邪険にしたり、男に気を遣わせる女と言われたり、一見厄介な女性が痛快な主人公に見えてくるから面白い。そのポイントを夫(ケヴィン・コスナー)の「ここで諦めるなよ」という愛の言葉と捉えれば、彼女は彼を手放していない? 実に面妖なラブストーリーではないか!
継母の抱く野望(不遜な振る舞いも様になるソ・ヨンヒ)、巫堂の助言にも耳を貸さず、名家に居座る薄幸系美女の不気味さ(ソン・ナウンが静かな存在感を発揮)、身ごもった妓女を躊躇なく拷問する、身分の高い主人の下衆っぷり……初夜に息子が次々と死んでいく、悪鬼に呪われた屋敷での騒動が、おどろおどろしく描かれる。女のすすり泣く声や煮えたぎる釜の音など、恐怖をそそる音響効果に震える。人間の心の闇と田舎の暗闇を重ね合わせる、古典的なホラーがいちばん怖い好例かも。
個人的に、特にミュージカルは登場人物のリアリティを求めてしまう。急に心情を歌い出す、その違和感を超えるには背景への十分な理解が不可欠だ。本作のNYで生活する移民達は、「どこで、どう生きるか」ということと常に対峙しているが、この一年半、それを考えてきた多くの人にその姿は突き刺さるだろう。終盤の夕焼けのジョージ・ワシントン橋を背景にしたダンスシーンが秀逸、「世界中がアイ・ラヴ・ユー」のセーヌ河岸での幻想的なダンスと同様、今後何度も観たくなると思う。
ここ数年、80年代に思春期を過ごした“少年おじさん”向けのドラマや映画があふれている。『ストレンジャー・シングス』なんかはよく練られているが、企画会議の様子が目に浮かび、私はドンピシャ世代だがハマれなかった。本作も一見、その流れの作品だが、あざとさは全く感じない。同世代の監督が少年時代の記憶と想像力をフルに使って、コアな作品のパロディをリミックス。「これを自分が観たいだけ!」というのが前面に出ていて潔い。お約束を茶化してズラすセンスも悪くない。
美しい朝焼けの中、牧場を馬が駆ける。それを見守る初老の男。往年のケヴィン・コスナー映画を思わせる完璧な冒頭。だが、本作は、ダイアン・レイン演じる孫を奪われた女の執念の物語だ。奪ったのは暴力で家族を支配し、他人までもコントロールしようとする、老女。演じるL・マンヴィルの眼差し、その滲み出るリアリティが怖すぎる。それぞれが正義と疑わない、価値観の違う“似た者同士”が親戚となって出会う悲劇はどこにでもあるが、その最悪パターンの行方にヒリヒリする。
韓国歴代最恐と謳われている(らしい)オリジナルは未見なのだが、物語は女の怨念をベースにした古典的な展開。何かが起きそうで起きない、思わせぶりな演出が続くので怖がる気満々のこちらとしては少し物足りない。顔面剥がしなど“痛い”シーンは豪快で、急に暗視スコープを使った映像演出が入ったり、嘔吐の描写が毎回異常に長かったり、エッジを利かせているが、それらの仕掛けと軸である“権力をめぐる女性同士の確執”のスリリングな心理描写とのバランスが悪く、勿体ない。