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かなり人騒がせな設定だが、冒頭から能書き無用のアクションで一気にこちらの気を引いて、座布団一枚! 殺し屋をしている10代女子2人の、バイト探しでの暴走。1996年生まれの阪元監督の、どこかとぼけたバイオレンス作品で、ルームシェアをしている2人の緩いお喋りがまたくすぐったい。なにより魅力的なのはキャラの違う彼女たちの演技とアクションで、素早い動きは言い訳無し。2人が殺し合う相手が迷惑なヤクザや半グレなのも小気味よく、阪元監督、乞うシリーズ化。
いささかこじんまりしているとは言え、いまから半世紀以上前の撮影所風景は映画好きには堪らない。リリー・フランキーが演じる監督のモデルも、日本映画に詳しい人なら、あっあの監督ね、とつい嬉しくなる。けれども菅田将暉が助監督として走り回る若き日も、そのなれの果てである沢田研二のパートも、昭和的なエピソードばかりが続き、どうも話がもどかしい。過去の夢だった脚本『映画の神様』の復活も、何かズルしているような。全体に地味なのは作品を引っ張る俳優が不在なせい?
集団脱走の目的はただ一つ、殺されて死ぬこと。いまは雑草が生い茂るだけのオーストラリアの大地に倒れた日本兵捕虜230人余の命。高齢の生存者の証言によれば、死ぬための集団脱走に、1100人余の捕虜の8割が同意したという。カウラ収容所は天国みたいなところだった、と語る生存者も。この事件を多角的に取材した力作で、次第に明らかになる真実真相が、決して過去の事件として終わっていないのも胸に迫る。山陽女子高生のカウラ訪問が頼もしい。
まるで善悪を超えた妖怪たちの大カーニバル! 俳優たちが演じているのだから当然だが、コテコテのメイクとナリフリで登場するその妖怪たちが、みな人間くさいのもいい感じ。妖怪は人間の煩悩の変異形みたいな。超自然的現象の映像にはSFXも使っているが、美術やセットに手造りならではの愛嬌があるのも楽しい。ストーリーは神木隆之介が主演少年を演じた前作同様、天ならぬ妖怪も、自ら助くる者を助く、の路線。ただ欲を言えば、もう少し遊びと笑いが欲しかった。
揺るぎない世界をもった阪元裕吾監督。前作「ある用務員」で抜きん出た存在感を放った高石あかりと伊澤彩織を同じような殺し屋コンビで登場させ、キャラクターの魅力でまず引きつけるが、今回は彼女たちを包囲する社会(男性社会)との対立図式を明確に描き、現代にふさわしいシスターフッド映画に仕立ててみせた。スタントマンの伊澤、アクションのキレはお墨付きだが、初めてセリフのある役をふられたというその口跡に絶妙なおかしみがただよう。伊集守忠の撮影も冴えている。
判断のむつかしい映画。松竹映画史のあからさまな参照をもって、批評性よりひたすらセンチメンタリズムに傾いていく作劇も、型通りで古くさい人物造形も、本来なら鼻白むところだが、いまこのときを有無を言わさぬ力技で盛り込み、ここまでいけばあっぱれ、と臆面もないラストに心動かされるじぶんがいた。小林稔侍の役柄ふくめ、亡き盟友・大林宣彦への思いがにじむあたりも胸に迫る。志村けんで観られなかったのはつくづく惜しいが、沢田研二のこれ以上ないみごとな演技に拍手。
近作では松林要樹「オキナワ サントス」と並んで、戦時そして戦後の忘れられた歴史に光を当てた作品。昨今さまざまな場面で誇り高き日本人などという美辞のもとに隠蔽されている個の軽視と同調圧力の恐怖が、丹念かつ誠実な取材と節度ある構成によって静かに迫ってくる。「忘れられた」と書いたが、「忘れる」ことは自然の風化のみならず、時代の風潮と思惑によっても起こりうる。歴史を伝えようとする演劇人や学生たちの姿ににじむ、「忘れない」という意思が未来をつくるのだ。
17年前の前作のときも疑問に感じたことだが、そもそもこの素材に三池崇史、はたして適任だろうか。子役の動かし方、情緒とおふざけのバランス、たとえば平山秀幸や金子修介だったらどうだろう、と夢想してしまう。キメるべきところでキマらず、アメコミ映画の出来のわるいパロディだけが空回り。役者陣の扮装は楽しめるが、安藤サクラや大倉孝二の妖怪は物語のなかでもっと活かせるはず。現実世界との接続も中途半端で、ファンタジーとしての層がいかにも浅い。
その能力をどう身につけたのか。バカな回想の説明などなく賢明だとしたいが、高石あかりと伊澤彩織演じる十代の女の子二人が殺し屋。そして二人が敵対することになるヤクザの娘に秋谷百音。ビビらない役をビビらずにやりきったこの三者が新鮮。音を整理してセリフがラップ的になればもっと楽しかった。頭のわるいヤクザとの決戦がクライマックスで、世界のシステムに反モラルのゲームを挑む展開がないなど、実は惜しいことだらけ。阪元監督、派手な技の加速的順番も考えてほしい。
監督昇進までこぎつけながら撮影初日に躓いた男を中心に人間模様を描く。挫折までの過去と、半世紀後にそのときの脚本を孫と直して百万円の賞をとるまでの現在。「奇跡をおこしてでも届けなくてはならない物語」だと山田監督は本気で考えたのだろうか。かつての撮影所での体験を垣間見せるが、事実の取り込み方が半端。「豪華キャスト」が実はさびしい。たとえば永野芽郁はいいが、永野〜宮本ラインはどうだろう。松竹関係者のみなさん、この程度の思い出と「神様」で納得ですか。
一九四四年八月、オーストラリアの収容所から日本兵一一〇四人が脱走して二四三人が死んだ。申し分ない待遇でも、脱走は「死ぬため」。その決行へと動いた集団心理の前提と押し切られ方のおぞましさに、主に、生きのびた人たちの証言から迫る。これを題材にした坂手洋二の劇の、現地での上演の様子も。「生きて虜囚の〜」の呪縛に何が負けるのか。日本人、昔はダメだった、ではすまない。ハンセン病を発症してきびしい道を歩んだ人と女子高生たちの交流がいい。満田監督、手がたい。
小学五年生のケイと弟のダイが、妖怪たちのいる場所に引きずり込まれ、世界か日本かよくわからないがとにかく人間を「破滅」の危機から救う。子供向けの夏休みお化け映画だとしたら、原作の荒俣宏も脚本の渡辺雄介も三池監督も「童心」の詩がわかってないのが辛い。「兄弟愛」と「友だち意識」を便利に使うだけで、妖怪たちの造型、どれひとつとしてワクワクしない。人間はこの地球でひどいことをしてきた。戦っちゃダメ。耳をすまして相手の声を聞く。お題目がすべてむなしく響いた。