パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
エスニックマイノリティとセクシャルマイノリティが寄り添い交錯していく。貧困や民族差別など声を持たぬ者たちの叫びや心の声を詩情豊かに映し出す。確かに80年代のペルーの社会や政治の歪みや矛盾が生んだドラマが描かれているが、それ以上に乾いた風が吹き荒む台地と光と影がドラマを超えて訴えかけてくる。善悪を超えて、社会に存在する複雑な矛盾とカメラに収められた人物や風景のドキュメンタリー的な存在感に圧倒される。類を見ない映像センスを持つ新人女性監督の今後に期待。
カメラは現代の魔術だ。死者の魂を鎮めたり過去を救済するまるで修験道士の役割を果たす。娘はカメラを携え、母親の過去を尋問か取り調べをするように追い詰めていく。敢えて語らなかったこと、衝撃的な内容はさることながら、カメラが映し出すその語り口や態度、沈黙こそが語り得なかったことを雄弁に語り出す。監督による詩情溢れるモノローグは、一個人たちの生き様を超えて、見るもの全てに共感を誘う。そしてかつて住んでいた家屋もまた写真と同等な記憶を喚起する装置となる。
「アウシュヴィッツとヒロシマ以降に詩を書くことは残酷だ」とパウル・ツェランは詠んだ。しかし加害の時間や誰の行為だったのか、両者の決定的差異は指摘される。ヒロシマを歴史的に見れば、当時の正義や合理性の名において実行された。勝者の歴史。この美甘進志氏の「赦す」という哲学/生き方は、これからの人類の過去と未来が同時に存在し絡み合う現代において、とても重要なものだ。もはや加害者や被害者という対立構造ではなく、他者への想像力。重要な映像の存在意義を見た。
「おしゃれ泥棒」のアイデアが登場するが、こちらは全くもっておしゃれではない。2001年という時代設定は、高額現金がギリギリ扱われていた時代か。物理的現金そのものが出現しなければ、強奪という行為は絵にならない。正義に基づく復讐劇は、義賊という形で古今東西古来から存在する。今作が特徴的なのは、妻を失った元サッカー選手はじめ、第二第三の人生を生きる老人たちに未来があるところ。人生は思ったより長く、夢や希望、欲望を持ち続けることが楽しく描かれている。
縁ボケ白黒スタンダードサイズの美しい映像でキュアロン「ROMA/ローマ」に通底する南米先住民の差別と苦難の現代史を描く。ペルー映画としては09年金熊賞「悲しみのミルク」の前史に接続される女性問題。アルベルト・フジモリが大統領時代、数十万の先住民女性に不妊手術を強制したように、母権剝奪はペルーにおける歴史的で恒常的な政治の横暴だ。ならば監督は詩的な映像で口当たり良く見せることに終らず、もっと攻撃的に演出するべきだ。悲嘆的なラストは実に残念。
製作総指揮・侯孝賢の趣味っぽい台湾の田舎町の風景や大衆演芸にウットリできる人か、自分の家族にカメラを向ける私的記録映画に強い興味がある人、入場対価に満足するのはその2タイプだけでは。レスビアンの母を持った運命や、ほかにもある監督の暗い事情は充分に映画的な重みだが、退屈なアングルとスローテンポで88分は長すぎ。間延びさせたフジテレビ日曜午後ドキュメントの台湾版てな印象。私の場合だいぶ前に両親とも死んで親がテーマの作品に関心薄いせいもあるけれど。
学校上映が主目的の映画だろう。すでに多くの原爆映画やドキュメントを見ている中高年には不要な内容だ。原作者の父の原爆体験が他に代えがたく悲痛なのは間違いないものの、強運と思える描写もある。俳優によるモノローグとドラマを混ぜた演出は低予算のせいで時代再現のクオリティが低く、役者の日本語も変だ。米国上映を想定してか「許す心」を説くのに私は同意できなかった。ちなみに『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』(中条一雄著)という書籍もあることを記しておく。
どの国にもジジイ映画の需要はあるようで、地球の裏側アルゼンチンからやって来た三匹ならぬ“七人のおっさん”はR・ダリン、D・アラオスら名優の渋い演技見物には悪くない。ただいかんせんテンポがあまりに緩慢だし斬新なアイデアやおっさん各々の特技の見せ場があるでもなく、完璧に予測できる平板展開と伏線にならない端役のどうでもいい余話に延々つき合うのは辛いし笑えない。アルゼンチンじゃこんな呑気な映画を2019年の経済危機まっただ中に公開して皆笑ったのか?
組織的に行われている児童誘拐や人身売買にまつわる、実際の事件に着想を得たという点が昨今の映画らしい。好奇心を刺激する俗なテーマは新進の監督にふさわしいものだし、先住民の貧困も描くべき問題である。しかしこんなテーマを掲げながら、国際映画祭を意識したようなアート映画っぽさに終始し、核心に迫る気がないのは不誠実。同性愛への言及も同様だ。事実に肉薄しながらアートでもある映画は撮れるはずなのに、ワールドシネマにありそうな演出に甘んじるのは一種の冒瀆では。
夫からのDV被害に耐えかねた母とともに逃げ、貧乏を余儀なくされた逸話に対し、その母が同性愛者で多数の女性と享楽的に過ごす姿は、本作の世界観において気まずさが漂う。実の娘らをないがしろにした動機に、母が自分自身の出産する性=女である部分を否定したかった本能があるのは仕方ない。そういった同情すべき点はあるが、内縁の妻を泣かせ、とある秘密の生贄を差し出した母の行動は和解すべき相手と思えない。作り手である娘の願望に基づいた編集でなければいいが。
日本は原爆の被爆国でありながら、昨今は広島長崎にまつわる映画は作られなくなった。本作も米国に住む被爆者の実娘の尽力で完成している作品だ。そのため無説明で突然始まり、通常のドキュメンタリーとは異なる奇妙さで進むが、独特の再現話法によって不思議な迫力はある。「アウシュビッツはなかった」というような歴史改変が湧きおこる世の中なので、被爆者の体験談は見やすい形で残しておかないと、近い未来に原爆はなかったという放言も起こりかねないと危惧している。
ファーストシーンのフラッシュフォワードが必要だったのか疑問。なけなしの金を集めていく順調そうなオープニングは、この不穏な未来の匂わせによって、すべてが起承転結の転待ちになる。不幸の訪れをほぼ知っている状態なので、結果的に転までは意外性のない単調な演出が続いてしまうのだ。ただ定型から出ないシークエンスの連続ではあるが、俳優陣の雰囲気や個性は味がある。理不尽な不幸の畳み掛けがかなり強烈なため、私腹を肥やす上級国民への復讐劇は慰撫に感じる。