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ガラス窓を補強する紙の張り付け。その檻を思わせるイメージが映画全体に通底。脚本家が演出する利点がこういうあたりに表れる。これは荒井晴彦による「特別な一日」なのか。主人公が初めて隣人の家に一人で上がってお掃除する場面の演出も痺れる。乱れた寝床の俯瞰構図がやけにエッチなんだよね。母子で買い出しに出て、その出先の河原でお母さんが急に開放的になっちゃう場面もエロい。この場面での工藤夕貴も善戦しているが、二階堂ふみの背中からのヌードはもっとエロかった。
カーロは今や旦那さん(画家リベラ)よりも有名かもしれない。長年封印されて来た画家の遺品とその写真公開を透して、彼女の生き方を知ってもらおうというプロジェクトが発足し、日本の女流写真家がその仕事を託される。コルセットと靴底の高さが左右異なる編み上げ靴の写真に私は心惹かれた。見事な成果だが、逆に言うと絵じゃなくモノへの視線が生々しいその分だけ、観客は固定観念を与えられてしまうことになる。彼女のシュルレアリスティックな絵の「謎」は薄められてしまった。
意外と8ミリ映画の出来が良い。シンプルだけど。女の子がレインコートで踊ったり歩いたりするだけで私は満足(今回、号泣はしなかった)。現像代をどうやって捻出したのか分からない(フィルムは元からあったという設定)のが難だが、文化祭で映画製作。いいじゃない。これしきのことに目くじら立てる主人公の父親のバカさかげんに呆れるが、このバカにほいほい従う校長のアホには呆れる以上の憤りを覚える。今どき、じゃなくって83年の話だが、それにしても時代錯誤な内容で頭痛い。
これ、実はフランス映画で、かの有名なバルトの『記号の帝国』冒頭の引用から始まる。悪い意味じゃなくスノビッシュな作りに最大の特色あり。敗戦から今日に至る日本の軍隊、自衛隊の歩みを手際よくまとめて、勉強にはなる。だが、知ってどうなるという無力感に私を含む日本人は今や囚われている。そこを掘り下げる姿勢があまりない。この映画が完成した後で日本人は取り返しのつかない間違った選択をやらかしてしまった気もするのだ。もっとも、それはこの記録映画の責任じゃないんだが。
終戦70周年記念作品とある本作、まんま終戦ドラマスペシャルとして放送されても違和感はなさそうだ。いや、もしこれがドラマだったりしたら、逆にスポンサー側から、もっと山場や見せ場をとクレームがつくかも。実際、観ている最中、女世帯の愚痴や世間話のくだりなど、何度も向田邦子のドラマを連想したり。里子役・二階堂ふみの、ちょっと丁寧な喋りことばもその観を強くする。それにしても里子の初体験を荒井監督が曖昧にするとは。ラストの茨木のり子の詩はスタンドプレイ!?
結果として一石二鳥を狙ったようなドキュで、しかもどちらも中途ハンパ。そもそも小谷監督の関心はあくまでも写真家・石内都の人と仕事にあり、その石内都がメキシコでフリーダ・カーロの遺品を撮ることになったことから、必然的に不在のフリーダが主張をはじめて……。事実、失礼な言い方をすれば黒子ふうな石内都より、ドレスや靴ほか、遺品からしてインパクトの強いフリーダの存在の方が断然目立ち、フト気付くと、サルマ・ハエックが演じた伝記映画のフリーダを思い出して。
30年ぶりに帰省する売れないシナリオライターが、名もない大学を出たと自嘲するくだりに引っかかってしまった。むろん、言わんとする意味は分かるけれども、名もない大学なんてあるワケなく、こんなことに拘る主人公にロクな脚本が書けるはずはないと、ゲンナリしたり。ま、この作品のミソは、30年前に映画好きの女子高生3人が撮った8ミリ映像にあり、回想による彼女たちの映画談義や撮影風景はそれなりにほほえましいが、とにかく描写がゆるくてクドく、特に音楽がうるさい。
日本の戦後史の研究者たちがそれぞれの立場で観たら、日本人監督によるフランスのテレビ向けのこのドキュ、大いに異論、反論はありそうだ。けれども90分の中に、敗戦前夜から三島由紀夫の割腹自殺までの戦後史を、ザックリというか太書きふうにまとめた構成は、迷いがないだけに分かりやすく興味深い。しかも世界の動きまで盛り込んで。マッカーサーの功罪(!?)への言及や、憲法9条がらみの情報も率直で明解。ナレーションが仏語だけに、日本の戦後史を客観視できるのがいい。
〈せめて静かに暮したい〉と斎藤龍鳳は書いたが、囁くような声でひっそり暮らす女たちの姿を丁寧に描くことで戦争の影が浮かび上がる。脚本は当然良いが、終盤の雨に至るまで画面から官能的な匂いが漂うことに驚く。数々の食、二階堂が抱える長谷川の枕、彼女が発する女の匂い、そしてトマト。露骨に描かなくとも匂いが濡れ場を包みこむ。河原で上着を脱ぎ捨て過去の不倫話を始める母と二階堂の膝下まで露出した脚など間接的エロスの程良さも含め、この静かな物語と語り口に酔う。
生々しく撮られた写真や映像よりも、身に着けていたものや愛用品から漂う生前の痕跡は、手で触れるといっそう身近に感じる(それゆえにコワいから触りたくないのだが)。最初から石内都がフリーダ・カーロを信奉して感激しながら撮られてはついていけないがオファーに応えて淡々と仕事をこなしながらフリーダを発見し、対話していく過程に観客が寄り添えるのが良い。生も死も時間も曖昧化する中で不意に訪れる石内の友人の死など、全てがスルスルと映画に引き寄せられたかのよう。
過剰なまでにノスタルジーに溺れて饒舌に語らせるのは大林映画がそうであるように見せ方次第で途方もない魅力を放つが、直球で語られては説明過多、冗長に思える。娘の自主映画製作を知って異常な行動を取る父と以降断絶した娘との描かれない30年が見たかった。SNSで簡単に過去の人間関係と繋がりストリートビューも普及した今、こうした郷愁の物語は寓話に徹しないと、脇の人物の現在まで思い入れたっぷりに語られても入り込めない。映画で映画への愛を語ることの難しさよ。
天皇制と戦後日本の歩みが海外向けに語られる体裁なので既知のものばかりと思いつつアーカイヴ映像に見入ってしまう。終戦の決断をしたあの人を持ち上げる映画が公開中だが、原爆投下を「気の毒だがやむを得ない」と言った人でもあることを核に持ってくる本作の感覚は一方に偏りがちな今だからこそ大事にしたい。5年前の作品だけに現代への視点にズレを感じるが、急速に横滑りした結果だと気づかせる。戦後70年は分からない世代だが、この5年の変化は本作で感じることができる。