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認知症を患った父親とその娘の関係を描いた作品――という概要しか知らない段階で初鑑賞したので驚嘆させられた。主人公の知覚を映像で再現することによって物語にサスペンスを生み出していく構造も斬新だが、その際に総動員される撮影と編集の技巧が光る。監督デビュー作でここまで精度の高い演出を実現させたフロリアン・ゼレールの手腕と、ゼレールに自由を与えた製作体制(フランスとイギリスの合作)の勝利。現在のハリウッドでは、こういうタイプの傑作は生まれない。
「非文明的環境で育てられた子どもたち」という題材には目新しさはないが、その背景として描かれているメキシコのカトリック教会内の争い、そしてドキュメンタリー作品と見紛う真に迫ったアプローチに興味を引かれた。もっとも、ファウンド・フッテージものの宿命である映画的快楽の欠如を凌駕するほどの驚きが待っているわけではなく、良くも悪くもリアリティ重視の姿勢が最後まで貫かれている。序盤でワクワクさせられた時点で、ジャンル映画としては成功しているわけだが。
レジェンダリー・ピクチャーズのモンスターバース唯一の内容的な成功作は「キングコング:髑髏島の巨神」だが、同作の設定を直接的に引き継いだコング周りの描写は悪くない(それほど良くもないが)。一方、コングと違って過去2作品で行き当たりばったりの描写に終始してきたゴジラに関しては、本作においても地に足がつかぬまま、その設定や周辺キャラクターの役割が定まっていない。北米で映画館体験が見直されるきっかけとなった功績に免じて、酷評することは避けるが。
映画史的な見地からは「随分と大胆なタイトルをつけたな」(英題も“Vertigo”)と思わずにはいられないが、ちょうど今回取り上げた作品でいうと「ファーザー」、あるいはアマゾンの「サウンド・オブ・メタル」にも通じる、主人公の知覚を映像化(&音像化)した作品。その野心的な試みを結局はメロドラマに着地させてしまうところは韓国映画らしいが、女優(この呼称を自分は敬意を持って遣い続けます)の美しさで最後まで持たせられるのも現在の韓国映画の強みだろう。
序盤、認知症を発症していた主人公役に、アンソニー・ホプキンスは威厳と活力に溢れ過ぎているように見えた。「象の記憶力」を持っていそうな強固な存在感を、ピーター・フランシスの精緻な美術がカバー。しかしラストシーンの、アンソニーのピュアな表情に驚かされた。そこから逆算すると、前半の強面は自分が壊れていく恐怖への強張りだったのかと。さすがホプキンス! ラストで隣に娘のアンがいたらなあとも少し。ホプキンスと渡り合うイモージェン・プーツの若さも好ましい。
偏った宗教観から森に引き籠る元修道士、既視感のある閉鎖的な田舎町など、意味深に煽るモチーフが多く、観終わった後、試写状にあった「メキシコに伝わる封印された禁断の実話」を検索したほどだ。フェイク・ドキュメンタリーとは、宣伝の妙に一杯食わされたわけだが、では「野良人間」の造語などによる表面的な刺激以外に、例えば本作では、何をもって人とし、獣とするのか、その骨格がなかったように思う。『野生児の記録』を読んだときの神話性や、慎重さは、見いだせなかった。
世相を反映した作風は、どこまで意図的なのだろうか。ゴジラとコング、迫力満点の頂上決戦が繰り広げられる場所にも、意味があるように思えるのはゴジラシリーズの特性ゆえか。「人類は再び生物界の頂点に立つ」と恍惚と語るエイペックス社CEOや、芹沢蓮(小栗旬)の進歩のない狂気は、昨今よく耳にする「人類が〜打ち勝った証」発言などとも重なり合う。駄目な大人に対して、マディソンやジアら子供たちの正気に救われた。ハイテクマシンのロック解除法が、意外にも古典的で愉快。
不安定なヒロインを取り巻く不穏な状況が、冒頭から積み上げられていく。彼女の耳の不調の原因が、実父の暴力だったと知り、絶望的な気持ちになった。窓越しに、ヒロインへの想いを一方的に募らせていく清掃員(チョン・ジェグァン)の挙動を、優しさと受け取るか、恐怖に感じるかは微妙なところだが、彼の背景をもっと知りたくなるような、魅力的な人物ではあった。薄幸系ヒロインを、チョン・ウヒが好演。過酷な運命に負けない、しぶとい存在感は、チョン・ドヨンを髣髴とさせる。
アンソニーは奇妙な日常に苛立っている。記憶と時間、現れる人物と場所が微妙にズレて繰り返される、まるでリンチ作品のようなビザールな感覚。そこに娘アンの視点も入り込む。幻想と現実の狭間、「フラット」での対話で構成される、認知症の父親とそれを介護する娘の世界。それを複雑に感じさせない繊細な演出と演技巧者たちによる最高水準の技術のやり取りは、感情も溢れている。観ている側は、肌感覚で自分ごととしてその世界を理解し、ラストは“アンソニー”の感情に同化する。
フェイクドキュメントは、嘘の中に潜んでいるリアルをいかに見つけ出して楽しむか、作り手の仕掛けと観る側の想像力がより試される。本作は80年代に起こったある事件の真相を、残された当時の映像と現在のインタビュー映像で構成されているのだが、野良人間研究記録の作り物感と編集のテンポの悪さが絶妙に合わさり独特のリアリティを醸している。出てくる人間それぞれの話に臆測と隠し事が垣間見え、都市伝説が生まれるカラクリをこのジャンルで描いているのが面白い。
モンスターバースは毎回監督のむき出しの怪獣愛が楽しいが、今作は集大成ということで色々詰め込み、駆け足感は否めない。両雄のガチバトルはそれぞれのキャラを活かした(コングの八艘飛びまで見られる!)シリーズ随一の完成度。人間が彼らとどう共存していくかというテーマもより掘り下げているが、良くも悪くも軸はあくまで怪獣対決で、さらに群像劇なので視点が多すぎてドラマは薄い。アレをアレする小栗旬演じる人物がキーなのだが、もう少し見せ場があっても良かった。
ほぼ一人の女性社員の日常を追っているだけの特に何も起きない展開をサスペンスフルな画作りと劇伴で不穏に演出。高層ビルにあるオフィスが舞台、彼女はデザイナーで秘密の恋人は美男、それを見守る可愛い系の窓ガラス清掃員の青年までいて、絵的にはキラキラしたドラマになりうるのに全篇息苦しい空気が漂い、観ていて辛い。それは監督の意図通り、派遣女子社員のリアルな現状、その真綿で首を締められるような日々の疑似体験。表裏の違和感、唐突なラストが不思議な余韻を残す。