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取材を元にしたドラマには、リアルをそのまま映し出すドキュメンタリーとはまた違う力があることを証明する力作。本作の場合は、日本で失踪した外国人技能実習生の証言を元にしているため、ドラマにすることで、より真実に近づくことができる。この作品のためにヴェトナムでキャスティングされた3人のヴェトナム人女優の、異国の地で生きる同胞に寄り添う演技の功績も大。移民や弱者の物語として、「ミナリ」や「ノマドランド」と比べて遜色のない出来。つまり、世界レベル。
お互いに愛し合っているのに、夫婦は離婚を選択する。その後の展開やファミレスの深夜の一人客への言及から、孤独化が進む東京という町では、なんらかの形でご縁で結ばれた人たちは、お互いにサポートして生きていってもいいのではないか? という大きなメッセージを受け取りかけたその時に、離婚した男女の長尺の性愛シーンが映し出されて困惑した。東京の片隅で交わされるこの情愛は、ラブストーリーとして惹きつけるものがなく、ただのミクロな物語で終わっている。
本作から伝わってくる、作り手の社会に対する怒りは、自分のそれとほぼ同じ。クールどころかヘルなジャパンにおける、女性に対する冷酷かつ理不尽な仕打ちや、クソ野郎による狼藉が、シングルマザーの良子と、彼女の同僚の風俗嬢・ケイにこれでもかと襲いかかる。満身創痍でも気高く生きる良子は、荒れた海で船乗りに行き先を示す、今にも朽ち果てそうな灯台のような存在だ。この映画には、石井監督作品の常連俳優、池松壮亮の「映画は祈り」という言葉がふさわしい。
2019年に自殺した川下先輩が翌年の命日に化けて出て、主人公の慎吾を連れて大学時代にタイムスリップ! その目的は葵ちゃんとのセックス! しょーもな! と思ったが、尻上がりに人間讃歌が聞こえてきた。3年連続でセックスチャレンジする中で描かれる、慎吾の人生の激変。それを踏まえた上での、葵と慎吾による川下先輩を弔うためのセックスは、二人から川下への愛や、生きることへのポジティブな矢印がバカバカしさを上回り、珍妙なのに爽やかなカタルシスがあった。
こんな彼女たちが世界にどれくらいいるんだろうか。膨大な数に上るであろうこんな彼女たちの命が、燃えることなく燻っている。彼女たちの諦めの表情が胸にぐいぐいと迫ってくる。彼女たちは怒らない。叫ばない。泣かない。いや、一度だけ涙を流す。ただ淡々と生きている。妊娠したフォンは超音波映像の胎児を見て、「小さい」と微笑みながら涙を流す。産めないことをもう知っているのだろう。病院帰りの硬い表情のフォンをカメラが延々と追う。ああ、これこそ映画なのだ。
ノアの箱舟が流れ着いたところはアララト山。タイトルはそのアララト山と関係があるんだろうか。サキちゃんは、半身麻痺のスギちゃんではない男に抱かれる時、スギちゃんを忘れようとしているのか、スギちゃんを思い起こそうとしているのか。そんなことを思わせた。越川さんのラブシーンにはいつも唸らせられる。行為そのもより、行為をする人の心を思わせるのだ。サキちゃんの行平あい佳もスギちゃんの荻田忠利も見もの。こういう密やかな、だが力の籠った映画がうんと増えてほしい。
石井裕也には常にまなざしがある。半ば諦めながら見つめることをやめられないまなざし。それは弱者はもちろん強者にも向けられている。そのまなざしに見つめられている日本という国。ヘイト、排除、蔑視、虐待、蹂躙、暴言・暴力、保身、無責任等、ひと昔前には恥ずかしくてとてもやれないと思っていたことをみな当たり前のようにやっている。そんな中で、「ま、がんばろう?」と息子の肩を叩く母の渋い輝き! 石井のまなざしに捉えられた尾野真千子は素晴らしい。
いまおかしんじと言うと「苦役列車」(監督・山下敦弘)の脚本を書いたことに思いを馳せる。好きな映画だった。彼が脚本で良かったと思った。また、彼にはいろんな映画で、ちょっとした役で出ているところに出くわしたりする。なぜか、いまおかさんというと「味」という言葉が浮かぶのだ。この映画も味がある。たわいもない話だ。身も蓋もないとも言える映画でもある。腑抜けたちが、「そう言えば」生きている。味の決め手は何もないのに、いい味がする。出来不出来などどうでもよい?
技能実習生として搾取され、逃げ出した先で孤立するヴェトナム人女性たちを描くが、映画はもっぱら彼女たち、その中でも妊娠によってさらに苦境に立たされる女性に密着しており、その閉塞的な視点がリアルと言えばリアルだが、彼女らを援助しつつ搾取もするヴェトナム人中間組織が現れるばかりで、彼女らの状況を生み出している根本、外国人を安価な労働力としかみなさず、本気で自分たちの社会に受け入れようとしない日本という国の閉鎖性まで迫っていかないのには不満がある。
半身不随になった夫と、彼を介護する妻。二人の日常を淡々と描く中で、二人をつないでいたもの(画家である夫は、草や石しか描かず、夫の絵でそれらの美しさを知った妻は、彼が自分のヌードを描いてくれることで自分に自信を持つ)、妻に依存する生活に次第に夫の心が壊れかけている様が分かってくる。ゆっくりと壊れる二人の関係は、彼らを結び付けていたものをまた別な形で蘇らせることで、またゆっくりと再生してゆく。その緩慢さと親密さが、自然の治癒能力を思わせて説得的。
たまたま上級国民だったり、上司だったり、徒党を組んでいるからといって「他人を蔑ろにしてもいいと考える人たち」に対し、「他人を蔑ろにしないことを選択した人たち」を対置する。後者はいかにも石井作品にふさわしく、頭おかしいと言われながらも、明るく、我武者羅で、しかし傷つきやすい人々だ。国民感情を逆なでした事件を出発点としながら、えげつない展開に持っていく通俗に就くことなく、弱者の意気と連帯を、ユーモアをもって描いている点がこの映画最大の利点である。
自殺した映研の先輩が幽霊として現れ、好きだった葵ちゃんと性交できる唯一のチャンスだった過去を生き直す。最近多い過去改変ものだが、ありがちな多幸的な結末ではなく、一向にうまくいかないという突き放し方、一方で葵ちゃんと性交するためだけに何度も生き直す先輩の姿に、自身挫折を繰り返す周囲の人物たちが感化されて前向きに生きていこうとする形で希望を持たせる。巻き込まれながらも事態を利用していい目を見ようとする、小狡いがどこか憎めない後輩の造形も良い。