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いまもっとも話題作。古来から人類は移動を繰り返してきた。土地や家屋を所有する意味とは。土地に価値がつけられ値段が決定されるが、国債や金融商品のように変動し流動する。「資本」主義そのものが固定を拒み続ける制度だ。企業は商品ではなくシステムを開発し、その権利を所有する。そして自らを食い尽くしていく。そのとき人類は希望や幸福をどこに見出すことが可能なのか。時代を超越した美しい映像によって迷子になった我々は、初めて生きる価値について直面させられる。
東田直樹の著作を中心に世界各国の自閉症の人々とその家族が登場するが、人間一般の間主観性のテーマを本作は自己言及的に提起する。名付けられた病を患っていようとなかろうと、固有の肉体と精神を有したそれぞれの個体は、その感受性や世界の見え方、関わりが同一だとは誰も証明できない。自身の内なる宇宙に耳を傾け自らを尊重することは、同時に他人に対しても寛容になることだ。この相互理解で世界は高次に到達するはずだ。存在することは恩寵を受けていることの証明となる。
これほど素晴らしい名優たちと彼らの「演技」が次々と映し出されるが、何か虚しい気持ちになる。エンタメやアクション映画が悪いというのではなく、物語ることがあまりにもお粗末に扱われているのだ。結果、俳優たちはその「存在感」を発揮できず、表層的な「演技」に終わってしまっているように思える。彼らがそこに「映って」いるが「存在」していない、という極めて珍しい作品となっている。家族を思いやる悪人と、家族を築けず疑似家族を重んじる復讐人との対決構造は面白い。
サーロー節子を追ったドキュメンタリーであると同時に、監督自身の自己言及的な旅でもある。ドキュメンタリー作品とは監督がテーマを自分事として引き寄せ昇華し、セルフポートレイトにあらねばならない。本作はその構造が秀逸。節子は大いに語る。それは「ヒロシマ・モナムール」や「ショアー」が行き着く「表象不可能性」とは正反対の着地点だ。同情を求めたり、自分の悲劇を語りたいのではなく、人々に行動してもらいたい、と。それは着地点ではなく、通過点であり、触媒の役目だ。
コロナ後の未来像を予感させる興味深いライフスタイルを提示。しかし原作本にあるワーキャンパーの過酷さや困窮を自由や心地良さと曲解させる優雅な演出には違和感。金持ち向けの映画祭映画になり、快適なシネコンでゆったり見ても観光気分以外に得るものはない。似た題材の作でどこかに仕込まれることの多い暴力や極限状況の描写がなく、映画を平和な物語にしている反面、起伏に欠ける不満も。終盤は風景描写ばかりで息切れ。格差を訴える映画では貧しき民はいつも耐えるのみだ。
知的障がい者が内面を詳述した驚きの名著が原作なのに、映画はその一部を朗読するのみで視覚再現を試みず、健常者の常識的視点で描かれつまらない。アウトサイダー・アート展で当事者の斬新で繊細な才能を直接目にする衝撃は本作になく、小奇麗でありきたりな障がい者の記録に終わっている。とくに後半は家族の苦労話を並べテレビの福祉番組と変わりなく凡庸。もっと当事者の心に踏み込む冒険的ドキュメントにできたのでは。未読なら映画を先に見ず、まず原作を読むほうが良い。
凡作。L・ベッソン「ANNA/アナ」やI・ユペール主演「エヴァ」と混同しそうな題で、内容も両作の折衷風。J・チャステインの年齢を口にすると怒られそうだから言わないが、同種の女性アクションならもっとイキのいい無名女優のDVDスルーや配信作品を見るほうが痛快だ。キャストが無駄に豪華でC・ファレルやJ・マルコヴィッチ、G・デイヴィスが出る場面は彼らに芝居させなきゃならないためか流れが緩慢に。古希前のマルコヴィッチが格闘シーンを演じたのはビックリ。
エンドロールに日本財団系列の米日財団(笹川良一創設)のロゴがあり、助成を受けているようだ。製作者のひとりでサーロー節子の協力者として出演する竹内道の亡き祖父・竹内釼(元近衛師団軍医・広島赤十字病院初代院長)が昭和天皇に謁見する絵画をわざわざ探し出す場面はその影響かと勘ぐらせる。サーローの活動歴やファミリーヒストリーとしてはソツないが、現在日本政府がとる立場や核兵器保有国の政治理念は本作からは知りえない。昨年8月6日、いちどWOWOWで放送済み。
家を失いさすらう者となりつつ、自己憐憫に陥らず尊厳をもって生きる女性。その生活の身体的、経済的に苦しい現実に迫りながらも、大自然は厳しさだけでなく神秘的な姿も現す。やはり自らさすらう女を描いたA・ヴァルダの「冬の旅」と比較して、本作は主人公に対し他者も自然も優しい。女である弱みにもつけ込まれず、救いは毎回あって、悲愴な域には踏み込まずに車上生活者の暮らしを描く。ノマドたちの交流会もヒッピーの理想形でちょっと口当たりが良すぎやしないかとも思う。
本作のポエティックな映像は、自閉症の内的世界を表現しているのかと思ったが、どうも映画内で語られる話からすると無関係のようだ。記憶の甦り方について、自閉症患者特有の、時系列ではない鮮烈な思い出し方についてのくだりは、軽く衝撃を受け精神が疲弊した。ゆえに、それっぽいがどうも乖離している凝った映像表現は、純粋に芸術系ドキュメントというべきかも。文字表現での思考の伝達は、もっと詳細で科学的な解説がほしい。アートと表明の共存が面白そうなだけにもどかしい。
これだけ個性的なキャストが揃っても、スッカスカな映画が出来上がることもあるんだな、と反面教師的に参考にしたい作品。あまり体型のことは言いたくないものの、ジェシカ・チャステインはトランジスタグラマーなため、キレのあるアクションに見えないのが玉に瑕。彼女が演じる「これから殺す人間の死の理由が気になる」殺し屋という屈折は、演技派らしい味付けだけれども、そこが生きていないので意味がない。家族との軋轢や依存症の過去なども感情に訴えてくる段階に至らず。
生まれ持った資質なのか、若い頃から恐れることなく世界を駆け回る生き方に、ひたすら尊敬の念を覚える。「おしえて!ドクター・ルース」もそうだったが、少女期に悲惨な戦争体験をし、そのあと異国で老いも関係なく大活躍する女性のバイタリティは、畏怖に近い凄みを感じる。被爆の語り部としての節子は、柔らかい言葉に臨場感と、若い女性が経験した生々しい視点があって言葉が記憶に残る。映画としては作風に衒いがないので、映画館より高校の視聴覚教室が向いている気もする。