パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
シュールでクール、しかもとんでもなく皮肉が利いた不条理コメディの秀作である。判で押したような日常を繰り返すだけの、何も考えないこの町の住人たち。隣り町相手の、いつ始まったか誰も覚えていない戦争は、既に習慣、伝統行事化し、誰も不審に思わない。俳優陣を台詞を喋るロボットのように動かす演出と、横移動の多いカメラも効果的。ニンゲンも戦争もきまじめ、かつぼんやりとミニチュア化したことで、逆に世界が俯瞰可能となり、そう、人間はこんな世界に生きているのね。
世間知らずの10代の少女ならいざ知らず、それなりのキャリアを持つ30代のヒロインの、あまりの無防備で自虐的な行動にアッケにとられる。仕事への不平不満? 心の渇きか体の渇き? ともあれ彼女は、きらびやかな都会の片隅で、裏アカに溺れていくのだが、一方でこれがデビュー作の加藤監督、地に足の着いたリアルな演出もぬかりなく用意し、ヒロインは裏アカと日常を行ったり来たり。結局彼女は両方から撤退せざるを得なくなるのだが、教訓的なのは気になるがときに教訓は必要!!
女は女性“性”を背負って生きる。男は男性“性”をブラ下げて生きる。って誰かが言っていたような―。ま、それはともかく、生む性としての女の月月の生理を、ここまで厄介なお荷物として描いた作品は記憶にない。結婚、出産は無縁と思っている従姉妹同士が、そのお荷物を、心情的かつ実利的に有効利用しようとする話で、結果として二人の世界はそれぞれに広がっていくのだが、何やら一人相撲を二人分観ている気も。そもそも“選ばれたい”という受け身のタイトルも気に食わない。
馴染のない覚えにくいタイトルだが百科事典にも載っている錬金術絡みの用語だったとは。更に劇中、呪文のような言葉がいくつも登場、ついメモを取りたくなったり。そういう意味でもかなり人騒がせな作品だが、人間の深層心理のヴィジュアル化を含め、清水監督、今回は内容的にも大人向き。ザックリ言えばトラウマについての話で、そのトラウマも人間の見栄や弱さ、罪悪感といったものなのだが、錬金術師気取りの成田凌が記憶喪失の綾野剛を最後まで引っ張り回し、飽きさせない。
根岸吉太郎が「カウリスマキに観せたい」とコメントしているが、オフビートな喜劇性の背後に世界の不条理に対する辛辣な視線がのぞくあたり、カウリスマキはもちろん、岡本喜八をも思わせる。虚構に虚構を重ねるか、現実に現実を重ねていくやり方が主流を占める現在の日本映画界にあって、池田暁のこの虚構と現実に対するソフィスティケートされた距離感はじつに貴重だ。片桐はいり、きたろう、竹中直人ら下手に使えば台無しのベテラン個性派勢も存分に魅力を引き出されている。
タイトルから後ろ暗い欲望を興味本位的に見せる映画かと警戒したが、高田亮の脚本(加藤監督と共同)は、都市生活者の孤独とそこから生じる承認欲求をめぐる滑稽な悲劇をスリリングに描く。いや、そもそも承認を求める営みそれじたいはなんら後ろ暗いものではないはずで、どこまでも清冽な瀧内公美の存在感も作用し、滑稽でありながら切実な物語として観る者の共感を喚起する。文字の演出、森田芳光の「(ハル)」を思い出させるが、もう少し構造的に生かせなかったか。
以前、身近でエッグドナーの話を聞いたことがあるが、日本国内ではたとえドナー登録がおこなえたとしても、卵子提供には高いハードルがあり、希望者の多くが海外に行かねばならないという。つまり、需要と供給の関係が成り立っていないのだ。その前提に立ってみると、「選ばれたい」と願う女性たちを「選ぶ」主体はいったい誰なのかという疑問がわいてくる。「裏アカ」もそうだが、承認を求める心の隙間に入り込み、搾取しようとする社会の側にじつは最大の闇が隠されている。
VFXによるイメージ世界の構築は最初こそそれなりに新鮮だが、紙の上で展開されるマンガにくらべると、明らかに作り物である映像のそれは早々にのっぺりと退屈なものに感じられてくる。おそらく清水崇監督の眼目もそちらではなく、(「村」シリーズと同様に)いずれ劣らぬ若手演技陣の身体そのものでいかに不可思議なイメージをつくりあげるか、という点にあると見え、綾野剛と岸井ゆきのの関係性にフォーカスが合っていく後半から俄然面白くなる。惜しいバランスの作品。
笑えなかった。川を挟む二つの町がたがいの実態を知ることなく戦争をつづけているのも、人々がとくに何を生産することもなく曖昧な権力と制度に対して従順に暮らしているのも、一昔も二昔も前の、古典的な悪夢だ。オフビートでも泥くさい滑稽味を狙ったタッチでそれを包み、役者たちは人間の愚かさのさまざまのタイプを窮屈な芸で見せる。この「きまじめ」は現在にたどりついていない。池田ワールド。そういうテイストの徹底ぶりは認めたいが、頻出する食べ物の扱い方が気色わるい。
見られたい自分がいる。裏アカでそれを解き放つ。反応に引きずられて危険なところまで。いわば最近の文化の症候を「お楽しみください」なのだが、瀧内公美演じる真知子が神尾楓珠演じるゆーとに出会った夜を境として、快楽とその充足の不可能性の二段階を通路として生の意味を奪おうとするこの世界の空虚さが歩きだした。共同脚本の高田亮と加藤監督、最後までよく持ちこたえたと思う。愛の不毛、アントニオーニに負けないものがある。富士食堂と客の神戸浩たち、うれしかった。
子供のいない夫婦への卵子提供。出産しない女性がそれで生物学上の義務を果たすという感じ方を本作で知った。冒頭、ドキュメンタリー的に何人もの提供志願者が語るが、それぞれの人間的魅力が見えない。ドラマ部分にもその感じがある。従姉妹である二人の話。二人の生き方も、直面する現実も、一種の弁解のためだけにそうなっていると思わされた。川崎監督、二人の心が接近したあとの溝、といった常套に頼って意欲を上すべりさせる。とくに赤ワインや鶏卵を使ったイメージ操作は幼稚。
綾野剛と成田凌。よくやってると思った。ともかくこういう話、と納得させる導入部から、わかりやすいヤクザの組長のエピソードまでは、この二人ならではというもの。妙に重苦しくエグいJKのエピソードをはさんで、綾野演じる名越と成田演じる伊藤の「いまに至るまで」が明かされていくが、複雑に作りすぎている気もした一方で、いいセリフと見せる演技の応酬に引きつけられた。清水監督、切れ味もうひとつか。頭蓋に穴あけてみたいと私たちに思わせるほどの場面がないのも惜しい。