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教科書で学んだ「米騒動」を、女たちが起こしていたとは知らなかった。学があって思慮深く、前へ出るタイプではない主人公を、井上真央がへの字口で好演。役柄も芝居も献身的だから、彼女がぎこちなく笑うラストショットに爽やかなカタルシスがある。日本の歴史を変えた102年前の民衆運動を、ポップなコメディに仕立てた本作で、作り手は声高なメッセージを叫んだりはしていない。しかし、日本社会がずっと直面している諸問題を解決するヒントと、我々へのエールが感じ取れる。
台北から、自分に好意を寄せる男性のいるクアラルンプールへ。東京から、初恋の女性がいる故郷・山形へ。台湾のどこかから、母の遺品整理のために海辺の故郷へ。転地はドラマが生まれやすい上、ラジカセやネガフィルムなど郷愁を誘う仕掛けが満載で、作り手の策に警戒心が芽生える。3篇とも役者とロケーションがとてもチャーミングだが、それらに甘え過ぎていて、編集がかったるい。「こんな恋があってもいい」という惹句を借りるなら、「こんな映画があってもいい」けれど。
男の秘密を知った女が、唐突に男を問い詰めるスリリングなやりとりに呼吸を忘れた。男はパニックを起こして絶句し、過去のあれこれも蒸し返す女に逆ギレ。ふだんは年上の余裕をかましているだけに、男の狼狽ぶりがあまりにも無様。「愛しているから勃たない」という悩みを打ち明けるなら、あのタイミングしかなかった。なんて考えを巡らせてしまうくらいには引き込まれた。ラストも鮮やか。雪見だいふくの使い方も上手い。もっと予算があれば、映像に色気が増すのだろうか。
冒頭の23分間で、なぜ主人公がヤクザになったのかを一気に描く。題字を挟んで6年後、全身に立派な墨を入れた主人公が、銭湯の湯船に入る姿を背後から捉える。この24分間の強烈な先制パンチで観客を圧倒する。抗争シーンで、ここぞという瞬間に主人公の視点になる、臨場感のあるカメラワークも気付け薬のように効いてくる。主人公と組長の親子のような関係だけでなく、「ヤクザと家族」の話が重層的に描かれていき、主人公の人生がファーストシーンをなぞる形で帰結。大傑作。
タイトルはどうなのか。それだけ聞いたら、ドキュメンタリーだと思ってしまう。こういう題材を映画化にこぎつけただけでもご立派。なら、タイトルで引き付けて出来るだけ多くの人に見てもらいたい。倒幕の志士たちがテロとはったりで江戸をぶっ壊して作った明治日本のDNAは好戦の昭和日本へ受け継がれていく。その挟間、つかの間の晴れ間のような大正は、江戸が蘇ったかのよう。米騒動は江戸の百姓一揆を思わせる。暴動じゃなく、騒動なのだ。おっかさんたちは本当によくやりました。
岡本かの子の原作、台湾の女性監督というだけで凄く興味をそそられる。かの子はあの岡本太郎のお母さん。『老妓抄』は、何度も読もうとして未だに読めず、本棚に立てたままだ。台湾、日本、マレーシア。それぞれの恋愛模様が、それぞれの土地の景色と絶妙にマッチしていて、まるで一つの絵画のようでもある。熱情をうまく包み込むような静かなタッチ。ことさら技をひけらかさず、着実に映画を織り込んでいる。ある種の気品が感じられた。この監督は穏やかに勝利している。
彼は「愛しているからこそ抱けない」そうだが、何故? 彼女を抱くと彼女を汚すことになると思ってるのか。それとも、抱いたことで彼女を失望させるのが怖いから? 現に、彼は彼女には勃起しないらしい。この何故がわからないから、「先輩に何がわかるのか」とか逆ギレしても、彼のことが理解できない。つまりは共感できないのだ。そうなれば、彼のことはどうでもよくなる。勝手にすれば? となってしまう。愛の姿形がちっとも見えてこない。「妻への恋文」という映画を知ってますか?
「義理と人情」という言葉が出てくる。高倉健らがやってきた東映任俠映画のメインテーマだ。「仁義なき戦い」が吹っ飛ばしたが、それを復権しようとした試み、でもなさそう。「シャブは御法度」という極道の王道を行く組は、仲間を殺した敵対の組に対しては当然仕返しをしてきっちりケジメをつける。主人公をはじめ組長も兄貴も敵対組のワルたちもみなステレオタイプ。「任俠映画」はそれでなくてはならないのだろう。そのヤクザたちが滅びていく様が哀しい。が、スクエア過ぎて味がない。
登場人物の一人が、男が参加しないと世の中は変わらないとして女性の運動を貶めるが、それに対抗する論理が、女は子供を食わせねばならないから、では女たちの闘争が世の中を変えた理由には物足りない。米騒動の何がこれまでと違う運動だったのか、米騒動に対する新たな視点、踏み込みが足りず、単に史実を画に起こしただけで、富山県以外の人が見るに足る映画なのか疑問がある。説明的なフラッシュバック、クライマックスのアクションのチープさ、画に魅力がないのも難あり。
岡本かの子原作というが、岡本の中でも一番あっさりした寸劇程度の作品をあえて選んでオムニバス短篇集のタイトルにしていること自体がどこか取り違えているのではと危惧を抱かせる。日常のふとした細部から人間の業を引き出してくる岡本の凄みはかけらもなく、パステルカラーの淡い色彩の中で、すれ違っていた男女が、何らの葛藤もなく最終的には何となくうまくいくという能天気。文学と映画は別物ではあるのだが、わざわざ本の表紙まで映してこれでは岡本も浮かばれない。
夜は男娼として働いている男が、彼女に対しては勃起しない、それで別れた彼女が彼を客として買ったら出来た、と思ったら、これで彼女は彼に別れを告げる、という通俗的な展開は現実にはあるだろうし、その原因は心理カウンセラーにでも聞けば分かるのだろうが、真因が何であれ映画なら映画として理屈をつけ、またさらに重要なことには画面こそがそれを説得的にするべきなのであって、思い入れたっぷりの長回しで観客は納得すると思われたなら映画も舐められたものである。
組長に父親を見出し、抗争で長い刑期を終えて出てきた男が、知らぬ間に家族ができていたことを知り、足を洗ってやり直そうとするものの世間に阻まれる。こうした筋自体はそう珍しくはないだろうが、ヤクザの人権や、反社という形での異物排除の風潮に焦点を当てたところが現在に即している。何もヤクザを弁護するわけではないが、人間社会から悪が消えない限り、ヤクザもなくなりはしないだろうし、その対処が排除=差別でいいのかとは思う。「ヤクザと憲法」のドラマ版。