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とにかく痛快だ。暴力を見たいとする抑えがたい欲望は、作品内の加害者や被害者、そして復讐者を通して我々に届けられる。我々鑑賞者の窃視欲動的な覗き見嗜好は、エロティシズムとも通底しているはずだ。物語上、暴力を正当化するには、まずは陰惨な抑圧・暴力があり、それに対する反動報復として描かれる。それでこそ理に適った正しい暴力となる。シューティングゲーム、地図、国家、共同体、法、そして映画も、ひとつの現実の写しであり、遊びである。人間の遊びが満載。
大都会が舞台の群像劇というスタイルが物語る役割はいささか古典的とも見えるが、良質な映像と音楽は秀逸。連想された画作りは、まさかのトルコのN・B・ジェイラン。このデンマーク・ドグマ95出身のシェルフィグ監督とは奇しくも同い年。教会の赦しの会や公の図書館、炊き出しの食堂、裁判所の吹き抜け、天使が佇んでいるような奇跡の光が印象的だ。高層ビル群の間の空き地に漏れ出したクラシック音楽が媒体となり、人々を結ぶ。光と音で充溢された「余白」の描写に脱帽。
「時間」と「代理」が何度も変奏される。溺れた妻の腕時計が外れた時間や娘の誕生日、昼寝のひととき、ガラス玉の落下の瞬間が永遠の宙吊りにされる。また陸に揚げられた魚はユハで、桟橋に並べられた花々は妻、誕生日に訪れる博物館はピアッシングルームとなり、妻の代わりにミストレス・モナが充てがわれる。「代理」によって人々は一時の安息を得ようとするが、現実の欠落は充足されない。物事が「代理」ではない「唯一無二」の存在になったとき、「愛」は完成するのだろうか。
ドキュメンタリーにおいて、扱われている「題材」を語ることは出来ず、私たちが見ているのは、単なる「映像」作品だ。本作では、「映像」と「画像」の決して交わらない軌跡が描写される。説明過多の映像ドキュメンタリー作品としては平均的だが、その対立構造として「映像」が「画像」に敗北していき、初めて自らの存在意義を逆説的に獲得しているようである。ニュートンの欲望やある種の文化を暴くと同時に、ニュートンの作品を利用し、「映像」の本質を自己言及的に裸にしていく。
映画の中間点でテイストがガラッと変わり驚くが、終盤で前半・後半の統合に完璧に成功していて「やられた」となる。前半はブラジル・ペルナンブコ州山間部集落のノンビリした日常を淡々と描写、独特の葬列シーンはドキュメントを見るよう。ただ、芸術映画的でもありエンタメ好きには退屈かも。ところがそれは大いなる伏線で、後半はジャンル映画調に派手に展開しつつ深刻な格差・環境問題を訴える。珍しいテーマではないものの構成が周到。UFOの使い方が斬新で興味深かった。
家出した母子、もと受刑者、孤独な独身者などネガティヴ要素を抱える男女(ただし美男美女)による「負け組」目線で描いたNYC舞台のトレンディドラマ。ご都合主義や不整合も感じるけれど、クラシカルな画風やゆったりした編集の「古き良き映画」タッチは中高年観客には悪くない感触だ。しかし結婚や恋愛から痛みを受けた者たちが、無反省に恋愛に回帰する結末は私には信じがたかった。私が男のせいか、ヒロインのDV夫にも少しは釈明させてほしいと思ったりも。
妻が早世し、娘のため貞潔を貫く昨今トレンドの父親像。その父がSMクラブにハマり見失った自己を取り戻す。風俗産業セラピーはロマンポルノなど日本映画によくあるモチーフで、そこに娘の視点を加えてホームドラマ化を試みた挑戦的企画だ。しかも拷問ホラー的演出まであり、観客は途方に暮れそう。ハッピーエンドにするため父と女王様の関係を無理矢理成就させてるが、バイトなのにつきまとわれて女王様も本音は迷惑だろう。気どった映像とボンデージ趣味が90年代風で古くさい。
懐かしやH・ニュートン。日本のヘアヌード解禁に多大な影響を与えたファッションフォトの巨匠のドキュメントはスキャンダラスなタイトルとは裏腹に、拍子抜けなほど明るく健康的。輸入写真集ブームだった80年代は厳格なイメージだったのに、実は剽軽なオッサンだった素顔と愛妻物語、みなすっかりオバハン化したモデルたちのガハハ証言で構成。荘厳にして豪奢、俗悪な傑作写真を多数見せてくれ評伝としても優秀。若い人たちにぜひ見てほしい。バブル期アートの真髄がここに。
現代の「風変わりな映画」ジャンルで流行しているテーマを、70年代の類似した映画と引き合わせて、ハイブリッドを生み出す手腕のある監督だ。そして決してB級に堕すことなく、核心には触れず周縁を回り続けるような茫洋とした語り口でアート映画を装う。ただ、もし「ウィッカーマン」に村人目線があったとしても、オチで驚かすストーリーのためお茶を濁していたら、結局いまそれをやるのは無為なのではないか?現実味として無理がある結末と、語りこぼした匂わせ要素があざとい。
個性派の良い役者を揃え、みんなそれらしいキャラを割り振られつつも、誰一人想像は超えず弾けないという無味。これは演出がこぢんまりしてしまっているからだろう。中心となる「夫のDVから息子二人を連れてニューヨークに逃げてきた人妻」という設定以上のものはなく、群像劇なのに役者のアンサンブルもほとんどないのは惜しい。それぞれの物語に厚みや魅力的な密度が欠けており、展開も緩慢で、各シークエンスの頭とお尻が間延びしているので無駄に尺を稼いでいる。
導入部は一秒一秒に集中力があり、魅惑的な焦点を持った映像と時間の過ぎ方に期待を抱いた。女の登場の仕方は怪物めいていて、主人公と不思議な通じ合いが生まれるのも、男女の出会いとしてセンシブルだ。しかし関係がSMに集約してしまうと矮小に感じてしまう。男が求めている意識を失うための窒息プレイにマゾヒズムは無関係に見えるが、その辺りがいささかはっきりしない。女王様にしては揺れ動く情動や戸惑いの理由、父と娘の関係の変化など、放置された逸話が気になる。
写真が素晴らしいので、惜しみなく作品が映し出されるだけで座持ちしている。有名な写真の逸話が関係者から語られ、被写体となったモデルや女優たちが回想するのが興味深くて観れてしまう。作家性、生い立ち、私生活といったテーマ別にトピックスが出来ているのも飲み込みやすい。女性の裸体への執着、嗜虐趣味やルッキズムについて、登場する女性たちが批判的な表現を若干混じえつつも、擁護する論調なのは最大の味方。夫婦愛の深さも写真の背徳性を打ち消して切ない後味となる。