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女性演出家と若手男優が、密室化した劇場のセットが組まれた舞台の上で、現実と虚構(芝居の世界)を反転、反復させていく――。コンパクトなりに重量感がある設定で、俳優たちもツバが飛ぶような大熱演。シビアな演出も、ライティングが効果的なカメラも、抜かりがない。説明ゼリフが多いのが気になるが、ま、ギリギリ、セーフ。が残念なのは、孤独を口実にしたメロドラマもかくやのエンディング。「飼育」シリーズの定番といえばそれまでだが、折角の野心作もこの着地では徒労感が。
ときどき記憶にない記憶が浮かんで気を失ってしまう17歳の女子高生。親や学校はほったらかし? パスポート申請をきっかけに自分が養子であることを知る。親はどうしてその事実を事前に伝えないの? 17歳もどうしてそのいきさつを信頼している両親に素直に聞こうとしないの?そのくせこの17歳、行動力だけは人一倍、同級男子を強引に巻き込んで自分の出生の謎探し。原作漫画も、その作者についても全く知らないが、冒頭からご都合主義と思わせぶりの連続で、その真相もあざとい。
ハシャギまくって、じゃれあって、ご機嫌で盛り上がっているのは、ご大層なコスチュームの出演者連と福田監督だけ。近年これほど味も塩っけもないハリボテ映画は観たことない。“新解釈”だって? 「三國志」のおなじみのキャラクターたちをいじくり回し、ただ遊んでいるだけ。福田雄一の破壊力のあるコメディは「銀魂」シリーズほか、それなりに楽しんできたクチだが、今回は観客を置いてきぼりにして映画が勝手にワルノリ暴走、観ているこちらも、片っ端から忘れて大正解だ。
内田慈の役が売れない女優ということで、つい「ピンカートンに会いにいく」で彼女が演じたアイドルくずれの売れない女優役を思い出し……。そういえば今回は競技ダンスの話だが、設定も似ていなくもない。それはともかく、テレビ人間の無責任なおだてに乗った彼女が、高校時代の競技ダンス仲間を誘って女同士ペアを組むという今回、内田慈も相手役の大塚千弘も、スタイルと姿勢が抜群にいいのに感心する。ダンスも達者。競技ダンスの融通が利かないルールにも挑戦してほしかった!!
松田美智子のノンフィクションから出発したこのシリーズ、いまでは特定の密室空間における男と女というシチュエーションを応用し、それぞれの作り手の性的観念を披歴する実験場と化しているが、その意味で今回は密室の設定に捻りが効いていて、長期シリーズならではの重層的なたくらみがうかがえる。実相寺昭雄の偉大なる失敗作「悪徳の栄え」を思わせる舞台装置のなかで、月船さららの身体性が存分にはじけているが、なによりそれを陰翳豊かにとらえた撮影・池田直矢の功績が大。
池田千尋の映画は、物語を描くための背景としてまちを捉えるのではなく、まちのたたずまいそのものが物語を語り始めるところに特徴がある。新宿副都心を臨む屋上風景、博多へ向かうバスの車窓からの眺め、玄界灘を背にした北九州の天景。これらの風景が物語の節目に「韻」として挟みこまれることで、記憶のなかのおぞましい光景とかけがえのない現在の時間とが、ゆるやかに、感動的に切り結ばれていく。脚本・髙橋泉の系譜で見ても一貫したモティーフが読み取れて興味深い。
この映画の逐一がいっさい面白くない、どころか不快きわまりないのは相性の問題であるとしても、ネタの一つひとつがことごとく内輪の頷き合いのうちに自閉している他者不在の世界観には「いい大人が……」と背筋が寒くなった。『カノッサの屈辱』のパロディとおぼしき西田敏行の語りが象徴的だが、80年代面白主義からいささかも進歩していない(どころかぎりぎりあった批評性すら捨象した)作り手のセンスに啞然とする。大泉洋も持ち前のコメディセンスが生かせず息苦しそうだ。
周防正行の「Shall we ダンス?」は社交ダンスを素材とした現代日本人論だったが、この映画は社交ダンスをとおして現代女性の抑圧と解放を描き出す。女性同士でパートナーを組むことをことさら象徴化され「女性のために」と言われてしまうことに対し、「自分のため」と言いきってみせるくだりなど、あくまで個人の物語の範疇に踏みとどまろうとするバランス感覚が、むしろ作劇に普遍性を与えている。役者の個性に救われているが、キャラクターがやや類型的なのが惜しい。
月船さららのヒロインは、芸術について根本的に錯覚しているとしか思えない劇作家。市川知宏と金野美穂の演じる男女二人だけが出る、江戸時代が舞台の、その作・演出の劇のリハーサルが主な内容。劇の中身に現実の人物の葛藤が絡む。濃い目に凝った画づくり。加藤監督、こういう趣味なのか。それとも、いまへの強烈な主張があるのか。どっちだとしても、表現についてヒロイン同様のカンちがいがあると思う。鳥肌立ちながら、部分の質感に労力と真剣さを感じるだけにつらい気がした。
髙橋泉脚本で池田監督。期待したのだが、こういうことでしたと最後まで持っていくのが精一杯という感じで終わった。いま、映画は回想の扱いがむずかしい。記憶の回復、こうなるのだろうか。もともとかなり無理な話。ヒロインの石井杏奈は表情がその無理に負けている。それに対して、高校生に見えない栗原吾郎はリアリティーのなさをこえて引きつけるものがある。池田監督、またしても性関係のない若い男女を一室においた。こうであっていいという持論があるなら聞きたい気がする。
福田監督、今回も「ハズレなし」の自信作だろうか。大泉洋でなければ困ってしまいそうな、まさに新解釈のいいかげんな劉備。いまの日本人的普通さと口だけの正論「民のよろこぶ顔が見たい」でなんとか乗り切ろう、なのかと思うが、本当はこうだった、本音はこうだったとするふざけ方がワンパターン。バカにしすぎと腹を立てるほどではないとしても、退屈した。男性よりも女性の方がしっかりしている。その点でも、もっと痛快に現代性を持ち込む作家金庸の武俠小説に学んでいない。
大塚千弘と内田慈。役に重なるようにここでチャンスをつかみ、はりきっているのはわかる。残念ながら、その奮闘ぶり、爆発的にまではならない。二人が、ではなく、作品がそうなのだ。藤澤監督、ここが勝負というところでアッと言わせるような表現の伸びを作れない。古めのヒューマニズムに頼りすぎなのだ。テレビ業界の愚かさとダンスの魅力、もっと本腰の対決を見たかった。空気を読めないという新米デイレクターの清水葉月と説明担当でもあるダンス教師木下ほうかが、トクな役。