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姉妹とその母親、三人の女性の生き方を通じて、狂気や無邪気性を孕む女性性の不確定さの映像化に成功。もはや線形的な時間や空間は存在せず、理想の幸福や正義さえ定義し得ない領域。あるのはぼんやりとした、しかし個体を超越した生命に対して忠実な本能としか言いようのない絶対的な重力。カインとアベルの姉妹版のようなこの現代の物語は、神話的であると同時にアジアや世界中至るところに存在しているのだろう。まるで器官なき女性の身体性で、昏く、生命に絶対服従する。
スターリン葬儀の1日。指導者の肉体と国家の肉体、ソ連の地方都市と首都モスクワ、モノクロームとカラー、顔のない群衆と個々の顔顔顔。様々な二項対立が振り子のように何度も往復し、ソ連の国土や国民の意識、映像の本質を隈なく網羅していく圧倒性。地球には西側以外にもうひとつの巨大な世界が存在していた。「撮影がなされなければ存在しない」という20世紀から続くテーゼを証明しているかのようだ。撮影しているカメラはただの一台。宗教のない星の人々の畢竟の大作。
33章の人類のエピソードは喪失や欠落、失望の物語だけではなく、たまには喜びや希望もある。人の感情は喜怒哀楽で分割できるものではなく、それらは総て同時に起きる。しかもそれらは割合が異なり、刻々と変化していくのだ。そしてただの4個の感情には到底収まらない。歯痛や精神的な悩みは、他人には痛くも痒くもない。しかし、これらの人類の感情の見本陳列ケースは、見る者の経験やその日の状況によって響き共鳴する。これは不在の神によって織り上げられた現代の聖書だ。
彷徨い故郷を喪失するユダヤ人の歴史は古い。神話の世界から脈々と繋がる不可思議で神秘的な運命は、非ユダヤ人にとっては永遠に理解できない謎のまま放置される。しかし、その謎を宙吊りにし、中身を論じず解けない彼方に押しやるのではなく、この作品はユダヤ人を等身大の普通の良くできた可愛らしい子どもとして描いた。映画史に貢献するような描写や脚本解釈はなく、アンナ役の女優の視覚的な可愛らしさ、楽天的で優秀な美形家族は最大公約数の観衆に受け入れられるはずだ。
深い考えなく選択すると間違いなく客席で退屈と後悔を味わうだろう。日本企業(朝日新聞)が出資しているためなのか、出来の悪い邦画にありがちな間延びした演出と動機の弱さに冒され、登場人物の行動も整合性がまるでない。横浜・野毛の有名なジャズ喫茶「ちぐさ」でロケされ永瀬正敏が店主役だが、全国的にその手の店の主は異性よりもレコードやオーディオを愛する人種で、作中の永瀬のような行動はしない。些細な例だが、そのように洞察と説得力の乏しさが隅々に透け出ている。
圧倒される発掘フィルムだ。超大国ソ連の国家行事を最大規模で撮影したアーカイヴであると同時に、沈鬱な人間の顔をひたすら映すだけで何も起きない壮大なアンビエント映画でもある。酷寒期のスターリン葬儀の3日間、膨大な参列者が映っているにもかかわらずニヤけた顔がひとつもなく、その深刻の重層は全体主義の圧力と緊張を客席にも強く伝える。国家体制はまさに民衆の顔に象徴されるのだ。「東京オリンピック」「金日成のパレード」などと見較べたい国家行事映画の新しい古典。
北欧の奇才の久々になる意欲的新作を「つまらない」と腐すのは勇気がいるが、正直、何度か寝落ちしてしまった。美しい構図で絶望する人間の様態を点描した一枚絵の展覧会。オチのない『ゲバゲバ90分』(古すぎ?)というか、他人の悲しみが生む傍観者(観客)の微細な喜びを小話の連続から検証する感情実験、といえば紹介にはなるか。観賞後しばらくして何かがジワジワくるのは確かだが、それだけでは……。何年か後には気が変わって評価するかもしれないが、今は薦めない。
中年男が孤独の癒しに見る映画ではない。しかし児童文学を原作にしつつ子供に媚びず、大人の観賞に耐える上質の演技・撮影・美術で悪くはない。戦前に早くもベルリンから逃避したユダヤ人家族の経験は「アンネの日記」「ソハの地下水道」、まして「異端の鳥」の苦難と較べようもないが、悲痛度が強すぎず原作者の絵本ファンも受け入れられるだろう。一点、映画のように失業中の夫に優しさを貫く妻が現実にいるか疑問。主力を女性客に想定しているのか、妻の描写に甘さを感じた。
面白くなりそうな設定なのに、予告に使われるお気に入りのイメージを時折混ぜてつないでみたような内容。そこに必然がないので意味が摑めず話が頭に入ってこない。意味のない動作が多く、つなげたショットに脈絡がないので、細かい時間の経過を理解するすべがなく戸惑う。結局どんな話で何を伝えたかったのか。「ちょっとスキャンダラスに思えることを取り入れてみたけれど、ほんとの興味はないので話が広がらない」といった顚末に思えた。水原希子の美しさは見応えがあるが。
悲喜の感情を顔に表す人がいない粛々とした葬列。これは映画と名乗られれば映画というしかないけれども、記録フィルムをつないだものと形容するのが正しいだろう。編集に意図的な時間の流れがあるわけでもないので、スターリンの国葬を捉えた映像のかたまりとしか形容できない。史料価値はあるけれども部外者が長々と観るには……。ロシア史や独裁者について研究している人が資料として観るのがふさわしいと思う。これまで経験した映画鑑賞の中でもワースト3に入る苦行だった。
いつもながらのアンダーソン節。美術も演出も前作からの続きのようで基本的に変わりない。ただこれまではもっと突飛な設定や、静謐とはいえ登場人物に動きやうねりもあった気がするので、本作は一連の作品の中だるみか。ただでさえ静止画のような映画なので、演出が落ち着いてしまうとダイナミズムに欠けて吸引力が減少する。もちろん元々の世界観が秀逸で、美術も空間造りもずば抜けているから見応えはある作品なのだが、アンダーソンに対するハードルが上がっていたかも。
実話ゆえだが、ナチスや迫害されたユダヤ人をテーマにした中では、珍しくのびのびと豊潤な少女期を捉えた作品になっている。主人公はもちろん、両親それぞれの人柄、周囲の人々のキャラクターも戦争にまつわる映画の範疇を飛び越えて、非常に厚く個性的だ。常にナチスの手が伸びる危機感は感じさせながらも、戦争を直視するのではなく、少女の生活を中心にして横滑りしていくような柔軟さがあって不思議な喜びを感じる。回帰するのではなく、変化と順応の連続の物語も爽やかだ。