パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
「痴呆症が入ってきたのかも?」と周りから心配される75歳の主人公に見えている世界のなんという豊かなこと! 独居老人である彼女の寂しさや「どうせ」という虚無感を男性の俳優たちで擬人化し、先立った夫との恋の始まりを病院の待合室のテレビに朝ドラのように映し出すなど、茶の間に転がっている気安い玩具で、極上のマジックを披露する。若さや愛よりも、熟成と知恵、そして精神の自由に価値を見出す沖田監督の集大成にして最高傑作が、そのメッセージを証明する。
タイトルロールのサクラを演じる俳優犬のちえにパルム・ドッグを贈呈したい。カウリスマキ映画に出演した歴代の犬たちに通じる、飄々とした気品がある。リビングやダイニングで、家族とサクラが一緒に居るだけで、そのカットが特別なものになる。サクラに愛を注ぐ長谷川家の物語は、末娘の取り扱い方法でミスをした。理解不能な美しい獣として描けばいいのに、映画オリジナルの性的な描写で陳腐化してしまった。長谷川家がサクラに救われたように、この映画はちえに救われている。
歌集の映画化だが、歌人も短歌も出てこない。歌人が歌に込めた希望と願いが、映画オリジナルのストーリーから放たれている。見事な換骨奪胎である。また、登場人物の名前の一部を黒塗りにするギミックにより、中学時代とおよそ22年後の現在時制からなる、人物相関図に対するこちらの推測を気持ちよく裏切ることに成功している。“夫が妻から言われたくない言葉ランキング”があるならば、間違いなく上位に食い込むあるセリフも鋭く、優等生映画からはみ出さんとする気概を感じるが。
なかなか大人になれない男性の葛藤を描く映画が数多ある中で、本作が他との差別化に成功しているのは、なまはげに始まりなまはげに終わったことだろう。地元の男の縦社会では、伝統芸能も父権主義も継承し、周りと同じ仮面を被って、思考停止して流されるのが一番楽な生き方だ。一度のミスでそこからこぼれ落ち、都会で揉まれ、地元に戻った主人公は、最後に自分の意思でなまはげの仮面を着ける。「泣く子」とはおそらく主人公のこと。仮面の下の泣き顔が想像できた。
長めの映画だったが、退屈はしない。それは立派ではあるが、そのためなのか、若い人にも見てもらおうとしたためか、様々に工夫を凝らしている。が、それが細工に見えて仕方ない。細工ばかりが目立って、それに気を散らされて作品の本当の中身が伝わってこない。桃子の分身だろう寂しさトリオだが、それが却って桃子の内面を推し量るのを邪魔している。人類誕生に至るCGアニメ、ステージと化す詫び住まい、坂道を登る桃子聖者の行進等、それなりに楽しくはあるんだが……。
あの「風たちの午後」の矢崎仁司さんが健在であることを印象づけた映画だった。低迷の今の日本映画界にあって、この作品はかなりの称賛を以て迎え入れられるだろう。どこにでもありそうな家族のグラフィティ。「死」を扱っているが、その悲しみを転がすように「生」を力強く躍らせている。惜しいのはナレーションの多用。無用な説明、余計な予告が見る側の興を削いでしまう。ナレーションは魔物だ。いっそなかったら、どんな大傑作になったんだろうとさえ思った。
こういう映画を観るとなぜかほっとする。身内ファースト自己満ガラパゴス映画ばかりが横行するのにうんざりしていただけに、爽やかな風に身体を撫でられた気がした。テーマは普遍的で重い。が、見つめ続けなければいけないテーマである。いじめっ子トランプは小学生の心のまま大統領になった。いじめられっ子が死ぬほど苦しんでいるのをよそに、奴らは小躍りするように人を踏みつけて出世していく。ストーリーラインは鉄板だが、着実にその道を踏みしめている。ああ、良かった。
「監督・脚本・編集……」。今はこれがトレンドになんだろうか。映画はいつから集団芸術から個人技になったのか。長篇デビューを意識していたのかいないのか、スタイルの確立に苦心している様が見えるようだ。脇の人物が面白いセリフを言う。映像も悪くない。が、肝心なことがよく描かれていない気がした。男と女の履歴がまったく見えないから、二人を思う手掛かりがない。結末はああしかならないだろう。なら、道草をしないでそこに至る太い道をまっすぐ突き進むべきではなかったか。
ごく平凡な主婦の老後、寂しさが擬人化して現れ、彼女の想念に茶々を入れる。神様が子供姿で現れたり、夫との馴れ初めが病院のTVに映し出されたり、夫への思いが歌謡ショーで歌われたり、現実と幻想が地続きで行き来する。老人の頭の中はこんな具合なのだ、ということだろうが、幻想によって現実が異化されるわけでも、現実と幻想の区別がつかない境地に至るわけでもなく、観客はごく安全な場所にいて、その行き来を楽しんでいればよい。映画にとってはその安全さが何とも退屈だ。
犬の名が題名だからと言ってほのぼの映画を思い浮かべる観客に冷や水を浴びせかける。語り口はユーモラスながら、映画はごく仲の良い普通の家庭に潜在する危うさを明らかにしてゆく。とりわけ兄への近親相姦的、同級生との同性愛的感情を示す小松菜奈の小悪魔的存在は、異物として揺らぎをもたらす。しかし同級生が卒業式で同性愛者としての自身を高らかに肯定してみせるように、映画も「悪送球」をしてくる世界を肯定する。誰をも無条件に愛する犬は即ち神なのだと判明する。
三人主人公がいて、それぞれに時間が違っている、というのが結構後になるまで分からないという作劇は面白いが、浅香の時間と水川の時間の差があまり生きていない気はする。いじめに耐え、学校に生き続けることを選んだ少年がなぜ十数年後に自殺せねばならなかったのか(原作の歌人がそうらしいが)、昔いじめられてそのトラウマというのでは踏み込み不足、本来それを踏まえて浅香と水川がどう変わったのかまで描くべきで、それがないため何となく前向きな終わりも納得いかない。
映画には語られる表の物語と、明示的に語られないが時折表に浮上して干渉する裏の物語がある。裏をどれだけ考え込んでいるかが映画を深くし、その浮上の動きが映画を動かしてゆく。主人公にとってなまはげとは、その面を彫ったという父の存在とは何だったかという、主人公の人生を支え、それに意味を与えるはずの重要な要素が考えこまれていないため、取って付けたような設定にしか見えず、物語は表面的に推移してゆくとしても、映画が映画として動く瞬間が全く見られない。