パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
この初夏に放送されたNHKの夜ドラ『いいね! 光源氏くん』は源氏が現代にタイムスリップしてくるというコメディで、それなりに笑えた。本作はその逆の設定で、平安時代に迷い込んだヘタレ青年が、ひょんなことから活躍(!?)の場を見つける話で、それもかなりインチキ。が青年を利用して皇位争いに勝負を懸ける皇妃の悪賢さはなかなか小気味よく、いっそストレートに皇妃だけの話に絞ってほしかった。原作者も黒木監督も、この女性の存在こそが作品の本命に違いないのだから。
デリヘル嬢の楽屋裏。既視感のある題材だが、もとは山田佳奈監督の劇団の舞台劇だとか。なるほど半裸姿で、“私の人生クソだった”と観客に向けてぶっきら棒に語る伊藤沙莉を狂言回しにした本作、同時並行的に何人もの女たちのそれぞれの状況が描けるので、題材として刺激的。そして見えてくる女だけの職場にありがちな(いや男だけの職場も同じか)嫉妬や競争心、コンプレックスに自虐性。アッケラカンと性を売る女も出てくるが、女の生きるパワーよりサラシ者的なのが気になる。
ヤケッパチの美学。デタラメの祝祭性。パターンの背負い投げ。究極の千客万来――。そう、こういう映画が観たかった。こういう映画に飢えていた。何より素晴らしいのは、山本監督が、舞台となる豪邸を、大袈裟に言えば地球規模(!!)で開放していること。ここには分断も境界も差別も偏見もなく、人類みな仲間、歌って踊れば気持ちは一つ。いくつかのエピソードに現実を取り込んではいるが、あくまでも踏み台で、あとはイッちゃえ、ヤッちゃえの楽天性、こちらももうノリノリ。
焼肉映画を観に行くよりも、焼肉を食べに行きたい!! おっと、それを言っちゃっちゃあ、ダメか。ともあれ、劇中に登場する数々の焼肉に関しては文句なし、美味そう。そういう意味では空腹時には向かない映画である。それにしても、セリフがあるのにあれこれ画面に字幕を入れる演出が実にうっとうしい。焼肉に関するプロ的なウンチク。主人公となるフリーターが出会う店主たちのこだわりや技は、業界ネタとしてワルくないが、音楽が浪花節の合いの手のようなのもズッコケる。
滑舌のわるさをひと笑いのネタにする冒頭から嫌な予感がただようが、日雇い派遣差別や学歴差別を思わせるダイアローグが次々に飛び出し、では本筋においてそうした価値観が相対化されるのかと思いきや、個人のコンプレックスの解消というレベルに問題が矮小化されてしまう。結局、現代日本映画の悪癖である安易なタイムトラベルものを利用して源氏物語トリビアを開陳してみただけで、それが現代に対してどういう意味をもつのかが考え抜かれていない。伊藤健太郎は好演しているが。
冒頭の切実なモノローグから、伊藤沙莉の表情と口跡に引き込まれた。俳優の主体性が映画を動かすとはこういうことを言うのだろう。山田監督の演出にも力が入っているが、おもな舞台となるデリヘル嬢たちの待機部屋における空間演出は、俳優たちの演技の迫真(それじたいは見ごたえがあるのだけれど)を演劇的な虚構性の裡に回収してしまうきらいがある。しかし、見かけの「当事者性」のうえに胡坐をかいている作品が目立つ昨今、生きた人間のいとなみを注視する誠意さは買いたい。
この種のハチャメチャお祭り映画は、たとえば近年では福田雄一や英勉の監督作品がまさにそうした路線を志向しているとおぼしいが、山本政志の場合は、閉じた楽屋落ち的くすぐりやTVバラエティ的な仕掛けに頼らず、どこまでも映画というメディアそれじたいの祝祭性に立脚している点がすがすがしい。一見するとアンモラルな要素も、すべてを均等に異化し、笑い飛ばす「アニマル・ハウス」的な徹底ぶりによって厭味のない多様性讃歌に昇華されている。ダンス含め小川未祐がうまい。
料理を扱った映画のむつかしさは、なによりも画面のなかの料理がことごとく美味しそうに見えないという根本的な問題に起因する(たとえば料理そのものをふんだんに画面に登場させた伊丹十三の「タンポポ」と、実際には料理以外の要素が映画を動かしていく森﨑東の「美味しんぼ」を比較してみるがいい)。とすれば、いやというほど肉を画面に映し出してみせたこの映画の出来は推して知るべしで、テロップの多用含めTVの安っぽいグルメ番組以上のものがなにひとつない。
周到にやればいろいろとできそうに思える企画だが、まず、現在から源氏物語の世界に入った驚きがユルイ。しまりがない感じ。千年という時間差についての発見がないのだ。ひとつの手は、平安時代を描いたかつての名作の影を意識して入れることだろう。黒木監督、そういう映画愛とは無縁のようだ。なにか言おうとしている存在は三吉彩花演じる弘徽殿女御。主人公の内面を、その妻となる伊藤沙莉演じる倫子とともに動かしたと納得させるには、セリフも十二単衣を着た姿も単調すぎる。
デリヘルの話。山田監督がかつて舞台でやったという群像劇。練られてもいるだろうが、空気がだいぶ古めに感じられる。この場合、古めなのは、欠点とばかりは言えない。見ながらずっと思ったのは、半世紀以上前の溝口健二「赤線地帯」と比べてどうだろうということ。表現力、とくに画面の奥行きでは及ばないとしても、こちらにも、言えていると思わせるセリフと世相の奥にあるものを抉る強度がある。漫画的な誇張を、どの人物にも用意されている正直な言い分が、空疎にしていない。
共同脚本の金子鈴幸の力も大きいと思うが、山本ワールドの集大成と言える量感たっぷりの迫力がうれしい。パーティーで出し入れ自由にした広い豪邸に異色の人物と空間を次々に呼び込むという着想。ヒロインあかねを演じる小川未祐が歌って踊れるように、ショー的展開を見込んだキャスティング。そのショーはいくつもの境界をとびこえる。どの人物の心理もヤケクソ感と承認要求が似ているのは惜しいが、上品さとは無縁のこういうノリでしか突破できない壁がこの国にはあるのだ。
おいしいものを大事に味わって食べているとよいことがおこり、その連鎖で人生が充実していく。「食運」ってそういうことであってほしいが、「食通」の寺門監督、食をめぐる幸福のほんの一部しかわかっていないような作り方だ。子ども時代に料理人だった母の作る焼肉を食べてそれで味のわかる力と知識をもった主人公だが、悔恨からか、基本が浮かない顔。声もよく出ていない。母に対して悪いことをした。その母は重い病気だ。早く謝りに行け、だろう。最後に出される意見もかなり平凡。