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娯楽と社会、政治問題を一見練った脚本で料理をしているようだが、浅くて哲学が感じられない。ヒラリー・スワンクという実力のあるしかし不運な女優が、いかなる役にも挑戦するという野心があるとは思えない。百歩譲って暴力や不条理を正面から描く意思があるわけでもなく、それでいて過激。過激な描写をするために浅い社会問題を担保として用意しているのか。純粋に視覚暴力を描くのであれば、それなりの責任を持つべきだ。過去の多くの名作を解釈しての結果のようだが浅い。
記憶に残るひまわり革命など台湾の青く初々しい学生運動が内部から描かれる。監督のモノローグとともに、ふたりのリーダーが頭角を現し、神格化され次第に挫折に至る過程。最終的には「社会運動」も「ドキュメンタリー」も「私(監督)」も、無力で役立たずだと肩を落とす。しかしその題材を自分ごととして撮らざるを得ないその意思そのもの、監督自身が映り込む。これは華々しい社会変革こそ起こさないが、明らかにドキュメンタリー作品として成功であることは間違いない。
コメディタッチに人質銀行襲撃事件を描写。金庫に入れられていたのは「紙幣」ではなく「心情」。いくら強固な施錠をしたとて、人の心は不可思議で予期せぬ科学変化を起こしてしまうものだ。そもそも恋愛とはある種の非日常的な共犯的犯罪で、集団的な常識を侵犯し禁忌を踏むところにある。それを「結婚」という法に落とし込むというすり替えを行なうことで社会の安定をもたらす。「通貨」「警察」「政治」という三大公的立場と対峙するものが、「心情」や「予定不調和」か。
奇しくもカポーティが亡くなった1984年に録音された数々の証言が約40年ぶりに発掘。そして数々の美しい古写真に肉声が重ねられ、NYとその時代性が炙り出されていく。一際目力の強い少年の写真は証言で一気に生気を帯びてくる。現在NYはコロナで死都に変貌しつつある。自分が愛する者を「小説」で死刑や自殺に追い込んでいく屈折した愛の形は、愛情と軽蔑が入り乱れ倒錯しているが、NYらしい。都市と出来事を肉声と写真とで再考察する内容は、記憶という業を考えさせられる。
残酷な人間狩りが主題で開巻からどんどん人が死ぬものの基本はコメディ。しかも欧米政治のアクチュアルやポリコレをネタにする意識高い系ギャグで、脚注的要素を予習すればより楽しめる。嫌味な選良趣味も感じるが、そこにC級スリラーをインテリに鑑賞させる悪巧みがあり、真剣に語ること自体が風刺のメタ映画なのだろう。ま、そのキモが観客に届くかどうか。ラストは突然女の肉弾戦になるがこれも政治的比喩?映画館の入場料に見合うかといえば、DVDか配信で観賞が相応。
意地悪な見方をすれば、出演者と監督の挫折が映画を面白くした。台湾学生の革命ごっこにも見える無邪気な政治闘争に混じった監督は、国を動かす歴史のダイナミズムに巻き込まれる。ひとときの全能感とあっけない理想の頓挫。その瞬間にしか撮れない記録は青くさく、若い女性監督ゆえの感傷も濃いが、そこにむせかえる「青春」の匂いと「映画」の成立がある。香港の民主活動家・黄之鋒がたびたび登場(周庭も一瞬)。ひまわり運動は雨傘革命に強く影響し世界を揺らしたのだと知った。
銀行強盗映画にしてはテレビ並みに健全で、E・ホークの演技も奇矯とはいえ目を瞠る域でもなく、かといってリアリズムに徹したわけでもなく、劇場で見て充実を得る内容とまでは。また基づく実際の事件は違っても、どうしても「狼たちの午後」を意識してしまい、予算を縮小してお上品に改変したリメイクの印象も。ストックホルム症候群の不可解な心理も、私はB級犯罪映画や成人映画に用いられたそれを見過ぎているせいか新味は感じず、正直この映画の興行価値はよく分からない。
「三島由紀夫VS東大全共闘」同様、すでに書籍(G・プリンプトンによる伝記)にある内容の映像付き要約だが、映画「カポーティ」と重なる要素は少なく、焦点は遺作『叶えられた祈り』にある。カポーティ本人の動く姿がたっぷり見られ、彼が主催した舞踏会や通ったディスコ(スタジオ54、R・フィリップ主演映画「54」の舞台)の映像も登場し旨味濃厚。60年代に政治と係わらなかったアメリカ人作家の存在意義を今日的に問い直す。未読ならきっと『叶えられた祈り』が読みたくなる。
不謹慎だが、始まってすぐに(景気の良い映画だなあ)とニマニマしてしまった。富裕層の人間が中流以下の人々をハンティングするという、映画業界では定期的に現れるテーマで、別に啓蒙目的といった意識は感じない。ただ大量の武器が出てきて、一気呵成に様々な方法で人が殺されるだけ。でも仮想だし戦争映画と何が違うのかとも思うので、悪趣味だとわきまえて楽しめばいい作品だ。冒頭のリレー形式の展開は斬新で見事。この手の映画に整合性を求める気もない。
学園祭などで参加者から「楽しかった」と興奮気味に繰り返されても、何がどのように起きて楽しかったのかという客観的理由を説明されないと、状況が把握できないものだ。本作は渦中でカメラを回していた人間にとって、雑多な感覚として正直なのはわかるが、2時間の映画として立ち会うのはきつい。監督の「私」の語りが、時折登場人物である博芸の行動のような編集だったり、現場の中心人物たちへ微妙な感情的介入をしたりするのも、混乱を招いてわかりづらくしている。
ストックホルム症候群を奇妙な心理状態とみなして撮るか、人質解放のための交渉術をパニックスリラー的に撮るかなど、視点が色々考えられる題材において、いささか退屈な設定に落ち着いたのがもったいない。被害者の人間心理として真っ当な生存戦略であるのを、こんな極端な場で出会った男女のほのかな惹かれ合いにしても別にいいのだが、慎みのベールでもう一歩踏み込まない。中盤以降に動き出す、警察や首相を悪人に仕立てた三つ巴の犯罪ドラマのほうが盛り上がる。
ネタ元の人が面白ければ逸話も多くて、下手な撮り方をしなければそこそこ観られる作品に仕上がる。それにカポーティほどお騒がせな著名人となると、写真だけでなく映像資料も豊富に残っている。だがインパクトがあって映える画像となると、結局見慣れた写真ばかりになってしまうのはありがちな注意点だ。奇行、麻薬、虚言癖のどれをとっても見聞きしたことのある話で、新ネタがない時に作るドキュメントとはなんだろうと思う。安易なドキュメンタリーの量産は続く。