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喪失感を抱えた主人公が、惑いと迷いを経て自分を立て直す、いわゆる再生もの。本作の主人公は、両親を事故で亡くし、叔父夫婦の計らいで高級タワーマンションで新生活をスタートさせる、文芸編集者。高層階の窓からの風景と、職場の古民家とのコントラストが、彼女の心の揺れをヴィジュアルで表現している。同じマンションに暮らすスター俳優とのメロドラマ仕立てのロマンスや、赤ワインだけを飲み室内でも靴を履いているタワマン族の描写から滲む監督の意思にニヤリとしてしまう。
鶴橋などディープ大阪の日常風景や、活気ある祭りのシーンが随所に織り込まれているのは、デジタル性暴力の被害者となる主人公の孤立感やネット社会の無機質さを際立たせるため? 芝居のワークショップの講師の「本当の自分」という発言や、アルバイトで着るウサギのキグルミは、他者の目に映る自分が、実体から乖離していく恐怖へと続く扉? 解説文には主人公が「精神を失調し始める」とあるが、失調のグラデーションを表現できていないため、彼女の決断が唐突に見える。
原作の東京郊外から港湾エリアに舞台を移し、小沢健二の『LIFE』、昭和のお菓子や映画ネタを、2019年のボーイミーツガールにぶち込んだ。二人のファーストコンタクトのシーンではヒロインの心象風景の雷鳴を画面に映す。ヒロインは歌詞のようなモノローグを独白し、ウキウキするとくるくる回りながら不自然な動線を描く。フィクションの技法を駆使した様式美の中で描かれる、恋と青春のカラフルな痛み。東京から未来と世界を展望するエンドロールまで抜かりなし。
お弁当も、父親と息子の3年間のストーリーも、丁寧仕立て。特筆すべきは、井ノ原快彦が演じる父親=原作者の渡辺俊美が所属するバンドのキャスティングと演奏シーン。トリオ編成や担当楽器、なんとなくのキャラクター設定はそのままに、バンド名と人名を変更し、この映画のために渡辺が書き下ろした3曲を、井ノ原、KREVA、やついいちろうがフルで披露した。この手法は画期的な発明であり、音楽映画として高く評価したい。エンドロールの映像はアイドル映画として大正解。
高層マンションの39楷に住むというのは、この映画を観ている限り、住み心地がいいとは思えない。出版社勤めの直実が住むこの部屋を時々訪れる人気俳優は、「あなたの夢は?」と直実に聞かれて言う、「地に足をつけること」。誰も地に足をつけていないように見える。おしゃれで知的で空虚な会話。悩みや苦しみ、悲しみにもかけられたベール。観ているうちに鬱々とした気持ちになる。誰かが死ぬんではないかと思っていたら、死んだのは飼い猫だった。この映画をどう楽しんだらいいんだろう。
彼女はパクと名乗ったり、青山と称したり、エロチャットのバイトをし、演技のワークショップに参加する。クラブで知り合った男と愛し合うが、その交合が何者かによって撮影されて、ネットで拡散される。自分は何者なのか。それを探しあぐねて、彼女は夜一人で静かにタバコを吸う。その空虚な表情が寂しい。思わず彼女を抱きしめたくなる。こんな女性がいま増えているようだ。自分を探しあぐねた挙げ句、自ら命を絶つ。彼女は死なず、別の女として生きるが幸せには見えない。
近頃こういう映画が増えている。なぜこれを映画にしたんだろうと疑問符がつく映画。恋愛もののつもりなんだろうか? が、愛らしいトキメキも切ない戸惑いも何も感じさせてくれない。このどん詰まりの世の中に生きる少年少女のリアルを描いたつもりなら、失敗していると思う。しつこく言うが、映画は人間を描くのが使命。人物の見てくれ、ファッション、一見個性的に聞こえるセリフ、かわいらしい癖、変わったアクションなどをいくら表面的に並べても人間を描いたことにはならない。
パパが息子に弁当のことを「お弁当」と言う。それがこの映画を象徴している。パパが作るお弁当はプロ顔負けの、まるでデパ地下の売り物。品行方正な人たちが当然のように品行方正なことをする。こんな人たちを見たことはないから、神様かフィギュアかどちらかなのかも。その人たちがまるで実感のこもっていない、「あれ?」と首を傾げるような的外れなことを言う。どこかで借りてきたレッテルを貼っているよう。フェイスブックやインスタグラムでの自慢を延々見せられた気持ちがした。
人生は長い、だから人と人の関係は仮初の積りでも地獄になる事もある。その中で嘘をつくことも、相手が死んでも泣けないこともあるのだが、それでいい。綺麗ごとでは済まない人生を、その穢れのままに肯定するという話を、小奇麗な高層マンションで描くのは皮肉なのか、懐が深いのか。自分ではどうしようもない事態にいかに立ち向かうか、というより、いかにやり過ごすかという話で、昔なら意気を欠く映画と思ったかもしれないが、これも生き延びる術と思うのはこちらも年を取ったのか。
全篇モノクロで撮られた大阪は、上澄みを掬い取られて劇の舞台として存在感を増しているし、狭苦しいクロースアップと突き放すようなロングしかない画角は不安定感を醸し出してホラーにはふさわしい。美学的には正解を出せているのだが、説話的にどうなのかという問題はあり、隠し撮りが知らぬ間に増殖する怖さなら舞台は無機的な東京の方が良かったろうし、有機的な大阪なら人格が変わりたい願望とその実現の恐怖という実存を巡る説話を強く出すべきでは。美学と説話の齟齬。
キレイでカッコイイトーキョーとか、世界がどうなろうと好きな子と一緒にいられればそれでいいとか、アイロニーとも本気ともつかない危うさ、脆さはいかにも岡崎京子で80年代的。外=世界に晒されずに済むモラトリアムと、外は外だった80年代が重なり、岡崎の描く少年少女は時代のアイコンたりえた(岡崎自身は外の過酷を知っていたが)。しかしもはや外が外ではなく、子供ですら容赦なく世界に晒される現在に本作が作られる意味は、逆説的に今(の悲惨)を感じさせる点にあるのか。
息子が父に向って質問し、父が返す答えに息子が不審げな顔つきをすると「もっとちゃんと説明した方がいい?」と問い返し、息子が「分かった」と答える場面が二度ほどあるが、映画全体がこんな調子、何となくで進んでゆく。父が弁当を作り続ける意味、それを通して父と子の関係がどう変わったのか、父がフクシマ出身は物語にどう関わるのか、また母親との関係が父と息子の関係にどう影響するのか、全部結局曖昧で、何となく分かるでしょ、と観客に丸投げしている印象だ。隔靴掻痒な映画。