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米南部から北部自由州へ黒人奴隷を逃がす地下組織の道案内として伝説となったミス・モーセ、ハリエット・タブマンが亡くなった2年後、グリフィスが「国民の創生」を撮る。その黒人男が白人娘を崖の上へ追い詰める場面をほのめかしつつ、この映画の大団円では白人男がハリエットを崖下へ追い詰め、2人銃を構えて向き合う。タランティーノなら絶対ぶっ殺しているが、ハリエットはわざと狙いを外してぶっ放し、馬上の勇姿となって去る。まるで西部劇。ざま見ろストーカー男!
ニコラ・テスラとの電流戦争に負けたエジソンは、その後キネトスコープを発表するが、直後に世に出たリュミエール兄弟のシネマトグラフが現在は映画の始まりとされている。さらにエジソン・トラストは映画の新勢力のユダヤ人に破れてハリウッドに席を譲る。こんなに敗北続きの男が不思議なことに、今や最も有名な発明王で、彼が電気椅子の開発にかかわった事実は都合よく忘れられている。この複雑さが複雑なまま、才気走った、だがはなはだ達意でない編集によって語られる。
この監督、アイディアをいっぱい持っていて、新感覚の作品をドヤ顔で世に問うている感じだが、どうもセンスがファッションや音楽業界のそれで、残念ながら映画の神に愛されていない。前半と後半の分断がひどく、人物と人物の結びつけに成功していない。ナタリー・ポートマンがどこからともなく唐突に出現した感じがする。彼女のダンスと歌も練習足りなくない? 冒頭がすごくいいだけに、前半の材料だけ使ってちょっと異色な小粒の一篇にできなかったか、と無念。
アルトマンの「ウェディング」では結婚パーティの最中、リリアン・ギッシュ扮する祖母が誰にも気づかれずに一人で死んでいった。この映画では、孫の結婚式を機に移住先から中国の実家に集まった親戚一同の視線の中心に、癌で死ぬことを本人だけが知らずに微笑する祖母がいる。告知する米国と、しない中国との文化摩擦が、NY育ちのバイリンガル孫娘の素敵に無表情な瞳に映ずるままに描かれる。見終わった後、一呼吸おくれて感動がやって来るような映画。
虐待で頭を負傷して以来、神の声が聞こえるようになったハリエット。その声に導かれて、数々の危険を回避し、多くの奴隷を解放した彼女は、ただ「ラッキー」だったのではない。肌身で知る奴隷制への恐怖が、闘争の原動力となったはずだが、後遺症に苦しむ姿と、神の声に集中する神聖な姿を混同した構成には些か困惑。神懸かりではなく、相手の弱さを一喝する目力や意志のある歌声、物語に呑み込まれない、C・エリヴォの存在感を生かした方が、英雄の映画としては、説得力があったのでは?
恐らく監督が撮りたかったのはメンローパークの魔法使い・エジソンVS.電気の魔術師・テスラ、マッドサイエンティストの術比べではなく、ウェスティングハウスを含む、当時の英雄たちの心の交流だったのだろう(という意味では邦題の勝利だ)。「電気椅子」まで含む熾烈な電流戦争から一転、シカゴ万博・中国館での天下太平なやりとりから「キネトスコープ」で発明家エジソンの健在ぶりを見せつけるに至るまでのロマンチックなエンディングをB・カンバーバッチがチャーミングに請負う。
冒頭の「詩的な名前に導かれた人生」というW・デフォーの囁きが鑑賞中、ずっと耳にこびりついていた。「詩的」とは言い得て妙で、歌姫セレステの人生は、数奇な出来事に搦めとられ、あてどなく漂流する心もとなさを抱えたまま、ラストのステージへと集約される。N・ポートマン渾身のパフォーマンスは、まさに〈Sweat and Tears〉。圧巻だが精一杯の汗と涙には、切実さや面白さを感じられず、むしろ客席のJ・ロウよろしく白けてしまったのは、直前の二人のシーンも尾を引いたかと。
船が港を出る時のように、ゆっくりと描かれる、家族の別れのシーンが印象的だ。ヒロインたちを乗せたタクシーが動きだして、祖国に祖母だけが取り残されるさみしさを、適切な(愛情の)濃度でカメラが捉える。その後、見送る祖母の隣に祖母の妹が寄り添う、やさしいツーショットが、別れに伴う悲しみを誘い、観ているだけで胸がつまる。何でもない“さよなら”が、永遠の別れになる経験がよみがえってくるのだ。時折現れてはヒロインを驚かせるスズメは、家族の運気の象徴だろうか。
冒頭、黒人奴隷のミンティは、弁護士に依頼し自分と家族たちの権利の証明を手に入れ、奴隷主に自由を訴える。その行動から、夫や父親は「自由黒人」で別の雇い主の家に住んでいる、など主と奴隷の複雑で計算された主従関係が見えてくる。彼女は逃亡し奴隷解放運動家となるのだが、その強靭な意志、常に「死か自由か」の2択を念頭に置いた行動が全篇を貫く。実際に虐待が原因でナルコレプシーだった彼女のそれを、予知夢が未来を導くという設定にしたのが秀逸。
時代背景である19世紀末の日常の質感を再現するため、全篇やや暗めの照明、陰影の表現を凝りに凝って「光=電気の利権をめぐる戦い」を“彩って”いる。当時の「画」を見事に作り上げているが、超ロングから超ロー、特殊なレンズを複数使用し、手持ちから早いティルトなど多様な手法でショットを目まぐるしく繋ぐバランス。それが心地良い。光を通した写真が動く「映画」の可能性、それを追求する喜びに満ち溢れていると思っていたら、映画誕生の物語でもあった。
終始不穏な空気が漂う不安定な展開、リアルで壮大、完璧に作り込んだライブシーンの熱狂に反した複雑なカタルシス。しかしそれらが本作の魅力だ。これは監督のコーベットが見てきた風景を再構築しているのは間違いない。ミレニアム前夜、高校内で起こった銃撃事件、911、SNS、そしてショービジネス。17年間の時代の変化を一人のポップスターの誕生と再生に重ねて描いているが、これはメディアが操作する情報に翻弄されてきたエンタメ業界に生きる者の体感、その記録だ。
家族が余命宣告された時、それを本人に伝えるか? から始まる非常にパーソナルな監督の実話。中国では「その恐怖で死が早まる」ので伝えないのが通例らしい。NY育ちのヒロインは、祖母の余命を知り、中国へ向かう。その「嘘」の間に、西洋と東洋の文化の違いも垣間見える。主演のオークワフィナの面構えが良い。強さと弱さの同居。NYに生きるアジア人の等身大のリアル。嘘によって巻き起こるズレを描くようなコメディではない。家族の歴史と関係性を丁寧に紡ぐ普遍的な物語。