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台湾の白色テロルの時代と人を現代の娘の目を通して描く「好男好女」を撮った侯孝賢は、どんな国にも固有の政治体制や歴史があるがそれはあくまで背景で大切なのはそこで動かされた人を見る目と語り、ある状況下で人がとる行動に対する深い同情(「中国語の同情とは対等の立場であなたの気持が判りますという意味です」)を持って人を見つめる作家でありたいと続けた。沖縄の歴史/物語を背景に人をみつめる平良監督の映画を貫くのもまさに少女菜の花の「胆ぐりさ」/同情の目の力だ。
埠頭。海。波。ブルーのカーディガンの寂しげな面差しの娘。そんな情景だけを抜き出すとなかなか素敵だったりもする。あるいは「男勝りの美人カメラマン」役の人気女性誌モデル嬢の伸びやかな肢体と演技もそこだけ見ればちょっと魅力的だ。自分以外の存在を好きになるとはどういうことか――と上映前の挨拶で述懐した監督がロマンチック・コメディの衣の向こうでめざしたテーマも興味深いと思うのだが、全体像としては生煮えの感が否めない。恋人たちと共に映画も走って欲しい。
これは映画として面白いとかなってないとか評することとは別の所で成立している映画ではないだろうか。教育啓蒙映画といったらいいのだろうか。要は“ケアニン”なる存在を広く知らしめることをまずめざした一作なのだと思う。である以上、説明的な筋の運びや演技に目くじら立てるのもお門違いというものだろう。で、この際、この場を借りてケアニンの皆さまへのお願いをひとつ、「○○さーん、■■ですよ~」と、老人の尊厳を無視するような語調、ぜひ再考してみていただきたい。
「ブレードランナー」の創造者に対するレプリカントの造反、愛憎を思いっきりリアルな日常生活の中で描いたら――とかいつまんでしまったのでは身も蓋もないだろうが、半径数メートル的身近な暮らしのまざまざとした感触の紡ぎ方、演じ方、それを究める程にひっそりとそこに埋め込まれた違和の肌触りが冴えてくる。そんな世界を怜悧に差し出しみつめる手際にそつはないがそれ以上に迫りくるものもない。橋本監督の独特の世界、特集上映でまとめて見るとまた違って見えてくるかも。
つくりはまるっきりTVのドキュメントで、一つひとつのカットもことばももう少し粘ってくれたら、と前半は惜しい気持ちがつのった。だが、観ているうちに、坂本菜の花さんや彼女を取り巻くひとたちの表情の豊かさが映画の弱点を凌駕する。これがフィクションならば、菜の花さんの「卒業」と今後への展望をもってきれいに終わらせるだろうが、映画は彼女がまた沖縄に戻ってきたところで終わる。それが沖縄の紛れもない現実なのだ、と訴える平良監督の強い思いに感じ入った。
おそらくはさまざまな経済的思惑が絡み合って出発したのであろう企画を、お膳立てのうえに胡坐をかかず、たくらみをもって良質のロマンティック・コメディに仕立てた松本花奈監督の手腕、みごとだ。オフィスやバー、人物が交差する街角といった空間のなかで情感の高まりを表現する演出の手つきは、評者が偏愛する80年代ハリウッド・ロマコメにも通じる。ダイアローグもいいな、と思ったら、脚本はウディ・アレンを敬愛し、古舘伊知郎のライブも手がけたリンリン(林賢一)。納得。
悪しき効率性を批判する映画が効率性にはまり込み、ことばでなく細かな所作から感情を読み取るべしと教える映画がことばに頼りきっている矛盾。「認知症の母親はなにもわからない」と訴える女性に主人公は毅然と反論、実際彼の行為はことごとく承認され感謝されるが、容易く承認も感謝もされず、それでも「なにもわからない」ことと向き合わねばならない点にこそ認知症介護のむつかしさがあるのでは? 「愛情は消えない」という美辞で糊塗されているものは小さくないと感じる。
ぼんやりとした表情、鈍麻する身体、その一挙手一投足に現代的な孤独を映し出そうとする視線にまず好感をもった。どんな力も独りよがりでは「人間のような」ものにしかなりえず、他者との共生のなかで受け入れられ、また相手を受け入れることで初めて生き始める「人間なるもの」の優しさ、美しさ。不器用を茶化さず、戯画化されたキャラクターではなく息をする人間にじっくり寄り添う温かな演出に心から拍手を送りたくなり、橋本根大監督の名前を頭に刻み込んだ。
沖縄、むずかしい。何をどう言うかの前に問題を鮮明にするストレートパンチが必要だ。本作にそれはないが、語るにあたいする素材に出会っている。十五歳で能登から来て沖縄で学んだ坂本菜の花。彼女が故郷の新聞に書きつづけた「沖縄日記」。その姿と言葉の、世界はまだなんとかなると思わせる力。そして、彼女が通った学校「珊瑚舎スコーレ」の楽しさと、存続への不安。報道部分も含め、平良監督は菜の花ちゃんに教えられたとでもいうように「聞く」。もっと身を乗りだしていい。
葉山奨之の主人公も、彼が出向することになる会社「恋愛コンサル」も、結果オーライ的に憎めないところがある。設定と話、うまく作っているのだ。主張的なものを装うことなく余剰感もないことに好感をもった。ゴダールが撮らないと言ったキスの場面。当然たくさん出てくるが、どれも実にたいしたことない。やはり伝統がないのか。そうだとしても、本物のキスカム、本気のキスがドキュメンタリーで入らないのは惜しい。松本監督ならできたこと。チャンスを棒に振ったのはだれのせいか。
施設に親を入れたことに複雑な思いがあるし、自分は入りたくない。私はそうだが、当然、この「不信」を打ち破ってくれる施設があってほしいし、それを応援する声も聞きたい。その期待は半ば充たされたと言おう。作品の芯は、島かおり演じる認知症の女性への対応と、その夫、娘、孫の気持ちの動き方に。そして、主人公と同僚たちの関係の好転まで、全体が「理想を言うのはいいが現実を考えろ」のもっともらしさを揺さぶる構成だ。残念なのは、音楽の使い方と島以外の演者の魅力不足。
超現実のなかの現実、非日常のなかの日常。普通じゃなくしたいのだろうが、そのおもしろさは出そこなって、ただ道具立てが希薄という感じ。でも、とにかくカップルで存在する鈴木とハナ。二人だけの納得で生きてきたところから転じて外に出る。クセある他者との時間。彼は清掃の仕事に就いて同僚たちに心理を揺さぶられ、彼女は公園で会った誘惑者にスキを狙われる。橋本監督、簡単そうに撮りながら、いまの、さびしい時代という側面と人を疲れさせるトゲの要素をつかまえている。