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市井の人の小さな話なのに、台詞が偉人伝に出てくるような名言だらけ。娘の台詞も年齢の割にキザ。芸達者な役者陣による、「ここの台詞、テストに出るぞ!」的なハイライトを施した芝居も、父親が亡き妻に語りかけると、中盤から死者の声が聞こえてくる手法も、わかりやすさの極み。つまり、全体的に台詞に頼りすぎている。「家事をするのは母親の役目」「学校は平日の昼間にPTAを開くので片親が参加しづらい」といった問題は、さりげなく盛り込まれているのに。
日本遺産の石見神楽、日本の一級河川で唯一ダムのない高津川、そこで捕れた鮎など、地域の名産や名物を詰め込み、無理筋ではないシナリオにきれいにまとめあげたお国自慢映画。清流や雲海をフィルムで撮影した映像は、「行ってみたいな」と思わせる美しさ。だが、エンターテインメントとしては、ストーリーやメッセージ、劇伴など、すべてがあまりにも既視感があり優等生的。石見神楽にまつわるシーンだけで、芸術(娯楽)としての純度が高いため、それ以外のすべてが蛇足に見える。
広島のご当地映画だが、内輪ノリの欠片もなく、恋と青春の記憶をみずみずしく描く。二度も閉館詐欺をしたストリップ劇場の支配人の、仕事にも過去の恋愛にも往生際の悪いキャラクターに、レディオヘッドの〈CREEP〉がマッチ。“彼女”と出会ったバーで流れ、主人公が独りで踊るエンディングで流れるこの曲が生み出すカタルシスに酔った。踊り子たちのパフォーマンスは、「なぜ彼女たちの踊りに観客は魅了されるのか」という劇中の問答に対する満点の解答。
30代の日本人監督の個人的な視点からムヒカ氏の人生を捉えたことで、幼少期の氏と日本人との意外な関係性や、氏が菊を育てる理由などが盛り込まれ、他の誰にも作れないドキュメンタリーになっている。圧巻は、来日したムヒカ氏の、大学での講演シーン。メモなどは一切持たない丸腰で、学生に投げかける生の言葉が突き刺さる。彼の人生とウィットに富んだ言葉が、生き抜くための最大の武器は知性と教養であることを証明する。この暗い時代に生きるすべての日本人にとって、灯台となる一本。
たまたま原作を読んでいた。人を泣かせるためにあるような小説だ。妻に死なれた男が、遺された幼い娘を懸命に育てていく。その健気な奮闘! 泣けるのは重松清の文体のせいなのか。映画はほぼ原作通りに展開するが、泣けないのはなぜなのか。キャストだって名優揃い。が、なぜか精彩を欠いている。映画は泣かせればいいというものではないが、そんな題材だったら、ちゃんと泣かせてほしい。映画は原作通りにやっても、時々失敗をする。原作を映画の文体で描き直さないといけないのだ。
ダムがない日本一の清流と言われる高津川。その流域に暮らす人たちの様々な人間模様。そう聞けば、およそどんな映画なのか想像がつき、想像通りに話が進む。悪くはない。親切な道案内を得ているようなものだ。それで心に染みるんなら文句はないが、染みることはなかった。小学校の閉校、リゾート開発、認知症など様々な問題を抱えながら、住民は誠実に生きていく。が、テーマがとっ散らかっていて、人物を深く掘り下げているようにも見えない。もっといい映画になった筈なのに……。
広島にあるストリップ劇場「広島㐧一劇場」が、閉館していく話だが、実際の劇場は二度も閉館宣言しながら再開し、「閉館詐欺」などと言われつつ今も執念で営業している。全国の劇場を回っているストリッパーたちが、ラストステージで踊るために「㐧一」に帰ってくる。我が家でもないのに、「帰る」と表現したくなる何かがある。壁に残された踊り子たちのキスマークが泣かせる。ノスタルジーを奏でる映画は時々嫌な押しつけがましさを感じさせるのだが、それもなく、とても後味がいい。
先進国と言われる国の近頃の大統領や首相が揃いも揃って悪党面をしているのに引き換え、このホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダーノのなんという顔の良さ! 町の片隅で、無類な味のパンを作る名もなきパン職人の顔のよう。「貧乏とは、少ししか持っていないことではなく、かぎりなく多くを必要とし、もっともっととほしがることである」と言うムヒカの心は限りなく豊かだ。息子に「ホセ」とまで名付ける監督の、自分の人生と重ね合わせながら、ムヒカにのめり込んでいく様が、共感を呼ぶ。
妻=母を失った父娘が様々な過程を経て、父の再婚に至るというありふれた話ではあるが、義理の父が、家族もリフォームすべき、死んだ者は柱の一本にでも残ればいい、という家族概念の更新を提起する点、新しい。ただ、失ったものの重みが感じられないので、それを超える飛躍が飛躍として感じられない恨みがある。冒頭からいないのだからしょうがないわけでは決してない、不在を在と感じさせる(妻の死後も残る癖とか仕草とか何か表現はあるだろう)のが映画の強みではないか。
田舎礼賛映画。東京の大学にやった息子が、このすばらしい田舎を捨てるなんて何を学んだのか、とか、全部機械化で職人の腕が消えてしまっていいのか、とか、長回しで良い場面ぶる上に、問題意識が古くさくて繰り言にしか聞こえない。なぜこうなるのかという構造的問題まで目が届いていないから、ではどうすればという展開もない。故郷を捨てた個人が悪いということになり、一人の改心でハッピーエンドという安易さ。発想も演出も凡庸。フィルム撮りなのに発色がおかしいのも問題。
女性たちが美しく撮られているのはいいのだが、ヒロインが美しい幻影に過ぎず生身でないことに顕著であるように、その美しさも結局男のロマン的な勝手な思い込み故ではないか、と思える。例えば閉館を機に見に来た女性たち、彼女たちから見ても魅力的に見えるとしたらそれは何故か、また踊り子たちにとってもストリップが何だったのか、という女性側の視点も必要だったのでは。ストリップも確かに芝居、それはそれで、男女それぞれの思い思惑がどう交錯するかで劇を構成すべき。
西欧以上に西欧化することでヒロシマまで突き進んだ日本は、しかし西欧とは別の価値観をもっていたはずで、そこに日本が非西欧的な在り様のモデルたりうる契機があるとムヒカ氏は言う。その理路は理解できるが、この映画がその理路をしっかり検討しているとは到底言えない。彼に心酔し、その名にちなんで息子を名付けた程度にしか変わっていない監督自身に、発展を是とする現在の価値観を捨て自分を変えよ、とするムヒカ氏の真意がどれだけ伝わっているのか大いに疑問だ。