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「ロックフェスで政治が語られない日本」が昨年話題に。日本ではロックが政治から最も遠い。なぜか。テレビの音楽番組にアイドルとロックが並んで出る状況。テレビは完全にスポンサーと代理店の所有物。日本で最もロックは沢田研二か。さて、この映画はすごい。トム・ロビンソンやデニス・ボーヴェルなど。ロックの教科書。知るべき歴史だろう。いまや日本のロックは音楽商品で、疲弊した地方の若者の声なき声はヒップホッパーたちに代弁されている事実を思い出した。
最近のジャームッシュ先生は吸血鬼やホラーに凝っているようだ。まるでゴールデン街で飲んでいる友人監督が撮ったような作品。しかしそうではない。ハリウッドの価値観や手法ではなく、あくまでも映画制作の楽しさ、批評性が伝わってくる。デッド(死者)とは役者や監督のことか。彼らは飼い慣らされず、自由に、有名人であるから無名で遊ぶ。役者という死者を永遠に延命させる重要な作品だ。そしてサミュエル・フラーの墓標もあり、いずれ這い出しゾンビとして徘徊するのだろう。
映画や映画館が当たり前に存在する国では想像もつかない事態。しかし我々が注目すべきは、国からの抑圧や政治的歴史だけではない。突然の停電に見舞われ、彼らは「サンセット大通り」のラストシーンの撮影現場を再現しだす。「ラストシーン」ではなく、まるごと「ラストシーンの撮影現場」をだ。まるで小学生のようにはしゃぐ老人たち。映画の光はそこに存在していないときこそ、生き生きと光り輝くのだ。圧政や検閲くらいで想像的悦楽は決して奪うことなどできないのだ。
チャウ・シンチーの作品は初体験。夢を諦めず何度も何度も立ち上がり屈しない。痛さを通り越し、いい加減呆れる。全篇にちりばめられているナンセンスな笑いには付いていけず、更に痛さを増す。成功や夢とは一体何なのか? 主演を勝ち取ったり、賞を受賞することだけが成功ではない。繰り返す失敗や挫折に呆れながらも、しかしいつの間にか応援している自分に気付く。その報われない主人公の姿はまるで私自身。感じた嫌悪感はまるで自分を見ている居心地の悪さからだった。笑。
英国から世界発信されたパンクとレゲエのバンドが組んで反レイシズムを煽動する意外性。そこにテーマを絞ったのが正解で、70年代の記録だがメッセージは現在にフィットする。紙媒体仕事の多い私にはミニコミ紙の影響力を示す中盤も刺激的だった。一方で証言者の数が少なく運動当事者に偏った印象があるし、人種差別の根源たる英国病末期の経済状況を概括する横軸も欲しかった。当時の英国の苦境は日本製家電や自動車の輸出攻勢の影響もあったのだから日本人にとり他人事ではない。
ジャームッシュも古希間近。初期作の直撃を受けた世代としては悲しい限りだが、年寄りが思いつきでジャンル映画に手を出すべきでない見本であり、A・ドライヴァーが出てなければDVDストレートで充分と思える不出来。ゾンビ物はアイデアと意欲のある若手監督にまかせるべきとつくづく思った。全く笑えない禁じ手を重ねる苦肉の終盤は老醜を見るようで切なく、象徴的なタイトルはもしや「俺はまだ死んでない」の意なのかと一瞬考えたが、監督もそこまで自虐趣味じゃなかろう。
非民主的政権が続くアフリカの紛争国で廃墟化した映画館を再興しようとする老いた映画人たちを記録する。ただし政治的主張は極力排除され、表層的にはワイズマンや想田和弘のダイレクトシネマを連想させる静かな描写に終始。エキゾチシズムを求める観客には優しい風景映画と尊ばれそうだが、スーダン映画史の掘り下げが弱く私は物足りなかった。老監督たちが停電続きの中で難なくスマホを操り、上映会はPC経由のプロジェクター映写なのが画面にそぐわぬ現代性を示し興味深い。
近年CG多用のファンタジーばかり撮っていたチャウ・シンチーが原点回帰しベタなアナログギャグで構成したナンセンス喜劇。前作そのまま大時代な映画撮影所を舞台に、例によって美人女優を汚しまくる監督の趣味が炸裂。新人のエ・ジンウェンは用意されたヨゴレ芝居をなりふり構わず演じるものの、華のなさが役に重なりすぎて笑いにならない。ハーマン・ヤウ共同監督のクレジットからも古い香港映画的な何らかのワケアリ感が漂い、星爺迷には楽しめても一般人には受けないだろう。
人間は生まれた瞬間から政治性と関わりを持たずにはいられない。本作はそのアイデンティティを認識しつつ、どのような信念の選択をしていくかという、現在も世界的に再燃している根本的な問題を音楽で切り取った映画だ。当然ルック的にもパンク・ムーブメントは魅力があるので興味深い。差別意識の凝り固まったつまらなさに対する、反差別主義に現れた、表現活動において垣根を越えミクスチャーを図った変容の面白さ。ただ登場する個々人の背景にもっと説明が欲しい。
自然とシュールなユーモアに向かうタイプの人が、ベタな笑いに挑んだときのお里が知れる感がすごい。ゾンビが繰り返す言葉のセンスなど居たたまれない気分になる。意外なのはロメロに対する敬意のなさで、シネフィルなら遵守せずにいられない、元来のゾンビ殺害ルールを無視しているのに驚く。常連俳優たちを観るジャームッシュ演芸大会的な愉しさはあるが、吸血鬼なら新たなドラマを作れるのに、ゾンビになるととっ散らかるとは、撮ってみなければわからないものだなと思う。
映画館を復活させようとする人物たちのコスモポリタンな経歴や、過去に監督した映画の引用が興味深い。そういった国際性によって、スーダンで表現の自由が抑圧され、国家から個人の固有性が剝奪される理不尽さがより浮き彫りとなっている。ただ、テーマは不条理な恐怖の中で上映活動を行う戦いではあるものの、具体的に描かれるのはイベントを開催するにあたっての工程だ。そこで目につくのはどんな催事を行う際にも起こるまどろっこしい手続きの描写なため、些か退屈さも。
デ・パルマの「ドミノ 復讐の咆哮」同様に、本作もチャウ・シンチーの映画を好きでずっと観てきたファンには面白いけれど、シンチー初見の鑑賞者には持ち味が伝わりづらい気がする。シンチー自身が主演しなくなって以降の作風なので、強く魅了されるインパクトがあるわけではないが、小品ながら癖のあるシュールな毒気とベタな笑いが共存する。世界観は相変わらずで、ちゃんと助演の登場人物たちのその後を拾う丁寧なカットもあり、きっちり落ち度のない娯楽作に仕上がっている。