パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
ピケティ先生の名物講義を映画というパッケージに落とし込んだのかと思ったら全然ちがう。経済学者が論じるテキストの背後で、イラストレーション(図示、絵解き)としての映像・音楽をすさまじい密度でモンタージュし、その大きなイメージのかたまりの運動として、字幕を読むのをやめても意味がほぼ伝わってくる。過剰な視聴覚情報を浴び続ける体験はサイケデリックですらある。ここまで編集で思いきり遊んでしまうドキュメンタリーは、欧米では普通で、日本では少ない。
見る前から傑作と決めていた。何を血迷ってといわれようが直感あるのみで、映画史も政治的正しさも蹴っとばしてひたすら快感にしびれるしかない理不尽さの中にこの映画はあって、要は私は暴力絶対反対だが、女の暴力だけは大賛成なのであって、女の猛攻に男性性が完膚なきまでに粉砕される様はうれし涙なしには見れない。いつもより日本語が変なのはこの映画の狂気に共振しているので、エンドロールの最後に至って自分がハーレイの声と言語に終始支配されていたことに気づく。
コメディは言語に深く根差した文化なので、このフランス産多民族コメディに登場する中国人であれアフリカ人であれ、全員すこぶる流暢にフランス語を話す。故に会話がはねてコメディならではの時間を息づかせる。うまく喋れない人、無口な人さえ一人も出てこない(というのも仏語は訥弁の存在を許さないから)。この映画の多文化主義はあくまでも単一言語支配のそれで、その前提があって初めてコメディというマシンが起動する。お笑いと外国語は相性が悪いのである。
人は轟音の中でむしろ眠ってしまうものだが、この映画の音量、物量、色彩、めまぐるしいテンポ、うるさすぎるカメラワーク、鳴き声、科白の混雑、すべてにおいて過剰にリッチ、トゥーマッチで、感覚が麻痺して睡魔に襲われる。VFXでやりたい放題の最近の香港映画やインド映画のエネルギーの充溢を思わせる。そういえばどちらも旧英国植民地。文化帝国主義の大本営は米国ではなく、実はブリテン島の海賊たちだったのかも。カーメル・ラニアードの可愛いさが救い。
ポップな音楽と編集で、経済音痴には原作よりとっつきやすい。米英の政治と経済の「物語」は、我が国の未来を暗示しているようで空恐ろしくもなった。一方で13年のベストセラーをいま映画化する意義をどこに見出すかという問題。ピケティ理論の裏づけに登場する様々な研究者、ポール・ピフの主張など鮮度に欠ける。監督が狙った「次の世代のために準備されている世界」の終末論的光景としては「エリジウム」より「マッド・マックス」を使ってほしかった。つまるところは好みの違いか。
戦う女性を観るのは大好きなので、クライマックスに至るまでの単独アクション(ピタパンで戦う歌姫が恰好いい)も、ブービートラップ(巨大な女性のグラフィックまで完璧なデザイン)でのチームプレイも爽快。E・マクレガーの不気味な敵役も見事だ。新旧ヒットソングが散りばめられる中、D・ペンバートンの音楽もワクワク感アップに貢献している。「あたし失敗しないので!」「ワンチーム」など流行の日本語を取り入れたアンゼたかし氏の巧みな翻訳が、作品のポップな面白さを盛り上げる。
世界一美しい国はフランス、中でも古城とワインの地ロワールにあるわが家が大好き、そしてヴェルヌイユ家の家族がいちばん! というブレない価値観を持ったクロード&マリー夫妻が、異宗・混合結婚した4人の娘たちの国外移住を阻止すべく、大奮闘するドタバタコメディ。えげつない本音ややり口を、人間味として素直に受け取れるのは、邪気のないキャラクター(最強キャラはマリー&愛犬)と演者の巧さ(クロードがダントツ)の賜物だ。個人的には、弁えたマドレーヌが好みだけれど。
スタビンズ少年(H・コレットがチャーミング)が、オウムのポリーに誘われて秘密の入り口を抜けた先に、バーンと広がる庭園の美しさにすっかり心奪われた。蝶々が舞い、光が燦々と降り注ぐドリトル邸も、モンテベルデ島にそびえるラソーリ城も魅力的だ。ドリトル先生と動物たちのやりとりも、それぞれの個性を尊重し合っていて感じがいい。説教臭いところはまるでないが、映画の終わりには、他者を救うことが自分を救う最良の道だと腑に落ちる。R・ダウニーJr.作品にハズレなし。
ここ数年〈たった数人の富豪が世界人口の半分と同等の資産を有している〉といった見出しの記事をよく目にするが、その実態はよくわからなかった。18世紀ヨーロッパの大格差時代に戻りつつあるという今、その「資本」をめぐるカラクリを300年前から近未来まで、膨大な映像アーカイブ、「ゴールド・ディガース」から「エリジウム」といった映画の一部まで使用して立体的に描いた本作。いろいろ腑に落ちた。自ら情報を精査し、考え、対話し、どう動くか。瀬戸際だ。
興行、評価ともに成功している作品に連続で出演、マーゴット・ロビーは、間違いなくいま一番輝いている。その魅力が凝縮されたような今作は、退屈な「スーサイド・スクワッド」唯一の救いだったハーレイ・クインを主人公にしたスピンオフ。仲間のキャラクターは、プエルトリコ系、アフリカ系、アジア系などの女性で、監督もアジア系の女性だが、最近の多様性を意識している作品とは違い、好きなように作ったら時代と合った、という印象。と思ったら、製作もロビーだった。さすが。
万国共通の多文化による問題を極端な設定で描くコメディで、前作は未見だが楽しめた。登場人物のほとんどが、いろいろ気を遣っている今の時代に逆行した無邪気な偏見を隠さないキャラクターというのが良い。その“良識のない”発言の数々にドキッとする自分にも驚くが、いや、これが「映画」だろ、と。一つ一つのエピソードに深みはないが、身近な問題を笑いにうまく落とし込んでいる。異文化間の行き違いを受け入れて楽しむ、というこの作品の提唱には大いに同意。
98年版は、ほとんど動物と話せる獣医師という主人公のキャラ設定のみ原作通りで、エディ・マーフィの芸達者ぶりを披露するためだけにそれを使われた感があった。本作は、登場人物、時代設定などはほぼそのままで始まる。ダウニーJr.のドリトル像はファニーで、動物たちのキャラも笑えるし、原作の要素とオリジナルの物語の相性も悪くない。だが、ダイジェストのように次から次へと移動していく展開は、スピード感があるとも言えるが、物語の魅力、冒険のスリルを半減させていた。