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開巻、行き交う人の足もとにある眼差しを映画は掬う。それが路上で暮らす人の目の高さだと示す。そうやって路上生活者を“特別の存在”とすること、その避け難さを彼らのダンス・グループを率いるひとりも、そんなグループにキャメラを向ける映画も請け負い、そこに生じる罪悪感も優越感もまた嚙みしめている。だからいい人めいた嘘臭さをきわきわの所で回避していく。「マラノーチェ」以来、G・V・サントが成就したストリート・キッズとの脱力的共振、その力がここにも感知される。
豪華なゲストスターをわさわさと動員しただけの空騒ぎじゃないかしらと、つい身構えて銀幕に向かったが杞憂だった。あ、そういうことかとジュリエット嬢ならぬ錠にふふんと笑ったあたりから、観客の予期を手玉にとる展開の妙、幽霊コメディ以下、往年の聖林映画のパターンをきちんとふまえた脚本と演出の真面目なふざけ方に巻き込まれる。あのアルプスの少女を腹黒な高笑いで包んだCMクリエイターの逆転のセンス、長篇映画でもぴりりと効いてコメディエンヌ広瀬、OKデス!
活字としては知っていた討論の現場を映像として見る、まずはその力にミーハー心をくすぐられる。三島の破顔の晴れやかさ、薔薇色の頬の艶やかさ、あるいはカリスマ性を輝かせる論客に抱かれて登壇した赤ん坊の肝っ玉の据わった目つきに、見ることの素敵を思い知る。優雅な解を求めて「翼をはやす言霊」をぶつけあう知の共闘、解放区のスリル、醍醐味。国会中継のあほでまぬけな答弁にうんざりの目に耳に新鮮なごちそうだ。贅沢をいえば再構成でなく素の記録のままで見たかった。
桜守の少年の振り向いた顔、水母の水族館と少年の顔、母と旅立つ少女の顔、老人たちの顔、顔。消えていく町の顔。蘇えるメロディ。そんなふうに言葉を列ねることの空しさを痛感しつつも鼻の奥を突くキナ臭さにも似た懐かしさ、そのあまやかな痛みにいつまでも浸っていたいと思わせる快作だ。一瞬で消費されるものたちで溢れる世界につきつけられた時の重み! 記憶と映画の親密に融け合う境界を息をひそめてそっと掬いとるような監督の意欲とみせない意欲の深遠さに見惚れた。
一時、心身ともにひどい状態となり、外出するにも一苦労という時期があった。あるくのがつらい。腰をおろしたい。そうしてまちを眺めると、ふと腰をおろせる場所が極端に少ないことに気づいた。いわゆる排除アートも目についた。現在のまちは(誰もが他者に無関心に)通りすぎる場所ではあっても、ひとが暮らす場所になっていないのだ。だとすれば、この映画に登場するひとびとは、己の身体をもって、まちとの関係性を取り返そうとしているのではないか。すぐれて示唆的な作品だ。
大嫌いな家庭教師のトライのハイジパロディCMを手がけた監督・脚本コンビの映画と聞き覚悟して臨んだが、不安が的中。デスメタルバンドのボーカルであるはずの広瀬すずは劇中一度もデスメタルを歌わない。彼女は幽霊が見えるという設定だが、カビの生えたギャグをやってみせる以上の理由がそこにない。そして、反抗的な娘が抑圧的な父親に振り回されたあげく丸め込まれる展開に唖然。無自覚な父性の礼賛やフィロソフィ皆無の死のドラマを軽いコメディだからと受け流したくない。
冒頭の東出昌大のナレーションのことばにまず引っかかりを感じた。「敵地」「まるで正反対の思想をもつ者たちの激論」という認識が前提とされるなら、三島と全共闘の若者たちのことばを2020年に再検証(?)しようとする試みは、現在に対してどのように作用するのか。結局、この映画は三島のよく知られた表層と遠景から眺めた全共闘を饒舌に知らしめるだけで、その内側に入り込むための主体をすっぽり欠いている。TVのお勉強ドキュメント番組以上のものではない。
地域「振興」映画がはなざかりの昨今、「喪失」と「忘却」をみつめる坪川拓史監督の清冽な視線に深く共鳴した。五年という歳月をかけてこの映画が完成されるまでのあいだに、映画の外側では、アイヌにかんする新法が成立し、全国規模での「まちこわし」が加速度的に進行した。坪川監督の視線は、室蘭というまちに蓄積されたひとびとの記憶に寄り添いながら、五輪の年を迎えたわたしたちのこわされた記憶をも手繰り寄せる。わたしたちもまた霧の中にいるのではないか。
こういうの、あるのだ。路上生活者とその経験者のダンスグループ。主宰するアオキ裕キに引きつけるものがあり、紹介される四人の団員はそれぞれ人としていいものを持ち、踊りもおもしろい。踊れる。いいなと思った。なぜホームレスになるのか。単に被害者的に陥るのでも能力的な問題でもなく、この社会のどこか隙間で追いつめる力がはたらくのだ。パフォーマンス、釜ヶ崎では受けなかった。そこにも引き込まれるものが。三浦監督、しっかり対象とつきあって、画のセンスもいい。
二日間だけ死ぬ薬。死んでみてわかること。というが、この場合、見えてくるのは死なずともわかりそうなこと。いい側もわるい側も手抜かりが多い。わざと他愛のなさを狙った喜劇だろうか。楽しそうに健闘している広瀬すずだが、その役は「とりあえず反抗しているだけ」でコシがない。作品全体もそんな感じ。みんな、しどころ不足の、本気で怒らない役。浜崎監督はケレン味をスマートに出そうとするけど、匂いの扱い方など、泥くさい。「魂、入ってる」についても思考が見えない。
三島由紀夫はタレント性がある。フェアーでさすが一級品という部分と、かなりギリギリでそうだったとわかるところも。一方、昔もいまも「めんどくさい」芥正彦、見直した。彼と若い解説役の平野啓一郎以外は、インタビューに登場するのはただ賢明なおやじたちという感じ。豊島監督、だれをも困らせない作り方か。使った映像が時代のどういう一端かを示せない。ミシマも東大も退屈。それでもよかった。とくに評者の場合は吉本隆明と現代詩、ゴダールからマキノまでの映画があったから。
坪川監督、「美式天然」から十五年。骨董品的な美意識と独特の間の取り方は変わらないが、古典性と呼びたくなる落ち着きと説得力が備わってきた。試写室の隣の席の女性は泣きっぱなし。でも、作為的に涙を誘うようなところはなく、わりと当たり前の話の、室蘭を舞台にした七つの物語。単に過去を懐かしがるのではないノスタルジア・ウルトラってこういうものだろうかと思った。個人的には、ライヴで聴いていた穂高亜希子の歌〈静かな空〉が効果的に使われていてうれしかった。